「声を観る」

            加 藤 高 穂

 

 パトモス島に流刑の身となっていたヨハネが、主日の礼拝を行なっていた時のことだ。彼は幻の中に天に移され、背後に喇叭の響きのような声を聞いた。

 そのとき、彼は、「私に呼びかけたその声を見ようとして振り向いた」(黙示録1:12)と言う。面白い表現である。声や音は耳で聞くものであり、目で見るものでない。それにも関わらず「声を見んとして」というからには、何か意味があるのだろう。そこで想い起こすのは、その名もズバリ、「世の音を観る」という名の観世音菩薩である。

 仏典の『観音経』には、「もし無量百千万億の衆生があって、諸々の苦悩を受けるに、是の観世音菩薩を聞き一心に名を称ふれば観世音菩薩、即時に其音声を観じて皆解脱を得しむ」とあるという。

 この世に生きる人々が、苦悩に耐えかねて、「お助け下さい」と、観音様に叫びをあげる。すると観音菩薩は、この危急の叫びを聞く。しかし、単に耳で聞くだけでない。瞬時に苦悩の本質を直観して、手立てを講じ、救いに与らせるというのが、「観る」という意味なのである。

 また『荘子』の「人間世篇」には、「之を聴くに耳を以てする無くして、之を聴くに心を以てせよ。心を以て之を聴くこと無くして、之を聴くに気を以てせよ」と出ている。

 気を以て聴くとは、虚心坦懐、己を去って、そっくりそのまま、声の真を受容することを言うのだ。

 ヨハネまた然り。彼は声の本質・真意を、そっくりそのまま受けしめられるべく、振り返ったのである。

2012.5.20.