私はここに立っている
使徒行伝第 15章1~2節
加 藤 高 穂
使徒パウロとバルナバは、主イエスの御霊の働きにより、数多くの異邦人を生ける神に立ち帰らせた。その第一回伝道旅行を終え、シリヤのアンテオケ教会に戻ってまもなくのことだった。
主イエスの弟で、エルサレム教会の指導者ヤコブの許から数人の使節が派遣されてきた。彼らが、どんな任務を帯びていたかは明らかでない。ただ、本来の任を果たすまでは良かったが、それ以上に出過ぎたことを行ない、アンテオケ教会に厄介な問題を引き起こしてしまった。すなわち、自分たちの勝手な信念に基づき、異邦人キリスト者たちに、「『あなた方も、モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、救われない』と、説いていた」(行伝15:1)のである。
割礼を受けなければ
異邦人が救われるためには、神の恵みによるキリスト・イエスの信仰だけでは足りない。神の選民としての徴・割礼を受け、モーセの律法を守る必要があるというのだ。
初代教会の指導者・ヤコブの信任を受け、派遣された使節たちである。彼らが揃いもそろって、熱心に教えているのだ。人々は彼らの言葉に、有形無形の権威と力を感じないではおれなかったろう。
しかも、それに従わぬ限り、自分たちの救いは危ういとなれば、どうか?教会内に少なからぬ不安と恐れが生まれ、動揺が広がったのである。
パウロとバルナバ憤る
「そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった」(行伝15:2)。
使節たちの余計な動きを知ったパウロとバルナバは、烈火の如く怒った。もしも彼らの教えがまかり通ることになれば、主イエスの十字架は虚しくなり、福音の真理は捻じ曲げられてしまう。人は救われるどころか、負い切れぬ重荷を背負いこむことになるのだ。
救いは、ただ一方的な神の恵みによる。他のことならいざ知らず、これは神の真実、人の救いにかかわる重大な問題なのだ。決して揺るがせにはできない。それでも、二人は喧嘩腰で、論争を挑んだりはしなかったろう。異邦人伝道の数々の証や、自分が救いに与かった日の出来事などを織り混ぜ、丁寧に説得しようと試みた。
だが、彼らは初っ端から聞く耳を持たなかった。どんなに素晴らしい伝道報告に接しても、パウロやバルナバの回心体験を聞いても、馬耳東風、自説に固執して譲らない。異邦人は割礼を受け、またモーセの律法を守るように命ずべきだとの、一点張りである。倫理道徳を守ること、信仰箇条を奉り、儀式を踏襲することが神の道だ。宗教だと、勘違いしている。
その頑迷固陋な態度に業を煮やしたパウロとバルナバは、最早これまでと、激しい論争を展開した。火花の飛び散るような激論を交わしたが、埒が明かない。それではというので、エルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになったのである。
後世、この時の状況と軌を一にして福音の真理のために敢然と起ったのが、16世紀ドイツの宗教改革者マルティン・ルター(1482~1546)である。
ルターの場合
ルターの父親は、自分が果たせなかった立身出世の夢を託して、18歳の彼をエルフルト大学に入学させ、法学を学ばせた。絶対王政化への傾向著しかった当時、法律を学び官僚となることは、栄達のための登竜門だったのである。
ところが、文学士となって故郷に錦を飾ったルターは、1505年夏、23歳のとき、突然、修道院の門をくぐり、修道僧になってしまったのだ。
その直接動機として伝えられるのは、帰省の旅からエルフルトの大学に戻る途中、激しい雷雨に襲われ、恐怖のあまり地に平伏して、「聖アンナよ、助け給え!私は修道僧になります」と叫んだ。ルターの父親は銅の鉱山業に従事していたのだが、鉱夫仲間の守護聖人として深く尊崇されていた聖アンナの助けがなかったなら、自分は死んでいた。その助けに報いるには、全生涯を捧げて、神に尽くすだけだ。そう信じた彼は、二週間後、聖アンナへの誓いを果すため、大学を去りアウグスチヌス会の修道院に入ったのである。
修道僧となったルターは、誰よりも厳しく戒めを守り、精進を重ねた。断食や徹夜の祈り、読書と研究、殆んど死なんばかりの難行苦行の生活を送る。だが、修行を励めばはげむだけ、自分の罪を深く意識し、魂の平安と救いを得ることができない。真っ暗闇の中で、生きながら地獄の苦しみを味わい、悶え苦しんでいたのである。そんな彼に、主は慈しみの目を注いでおられたのだ。
ただ信仰のみ
青年僧ルターの熱心と精進、勉学と学問、その人となりを高く評価した修道院の総監督ヨハン・スタウピッツは、自らが神学部長を兼ねていたヴィッテンベルクの大学の講師にルターを任命した。1508年、ルター26歳の時である。
さらに大学での研鑽が認められた彼は、四年後の1512年には、神学博士の称号を授けられ、スタウピッツの後釜として神学の主任教授となり、詩篇・ロマ書・ガラテヤ書・ヘブル書の講義を続けた。異説はあるが、そんな中、最初に詩篇を講じた1512年の暮れか翌1513年の初めに、『塔の体験』と呼ばれる覚醒を体験する。
「信仰による義人は生きる」(ロマ1:17)という使徒パウロの言葉が、光となって彼の魂を照らしたのだ。天が開け、平安がきた。信仰も義も、こちらの業でない。神から賜わるもの。すべては、神の恩寵であり、こちらは空っぽにされて、神を讃えるだけ。主イエスの福音が、彼の魂を貫いたのである。
そうした折も折、ルターの前に一大問題が起きた。
免罪符問題
1513年、法王となったレオ16世が聖ペテロ寺院建設の費用を得るため、免罪符を売り出したのだ。そして、ドミニコ会の修道僧テッツェルが、免罪符を売り広めつつ、ルターのいる都市ヴィッテンベルクにやって来た。「金が箱の中でチリンとなるや、魂は煉獄を飛び出すのだ」。「汝の父は炎の中にいるではないか。汝は僅か10グロシェンをもって、彼を救い得るのだ」と、言葉巧みに人々の購買意欲を煽り、売り捌いて行く。
ルターは、神の僕として、それを見過ごすことはできなかった。1517年10月31日、免罪符の販売に反対して、「九十五箇条の提題」を城教会門扉に掲げたのである。彼35歳の時だった。これが思いがけぬ反響を呼び、宗教改革の発端となる。ルターに対する教皇側からの圧迫は、激しかった。
1521年3月、ルターは異端として教皇から破門され、翌4月には皇帝カール五世は、ヴォルムスの帝国議会にルターを召喚し、自説の撤回を求めた。皇帝を始め、諸侯、自由都市の代表、法王庁の使節たちが綺羅星の如く居並ぶ中で、ルターは、神のまなざしの下に立つ一個の人間として、己が心と魂の真実を告白して否まなかった。
「私の良心は、神の言葉に縛られています。私は撤回することは出来ません。撤回しようとも思いません。なぜなら、良心に背くことは安全でもなく、また正直でもないからです」。
「私はここに立っている。それ以外にない。神よ、助け給え。アーメン」。
先立ちの主を拝しつつ
神の大いなる恵みとして賜わった、私どもの人生である。だからといって、苦しみや悲しみが無いわけでない。静穏な日もあれば、嵐の時もやって来る。それぞれの人が、それぞれの状況の只中にあって、生かされているのだ。
雨の日は、雨の中を。風の日は、風の中を。私どもが、どのように生きるかが問われている。自分を見るのでない。向うから吹いてくる神の息吹きなる霊風を受け、先立ち給う主を拝しつつ、共に歩ませられたい。
〔2018.3.20.〕