喜べ、恵まれた女よ

          ルカによる福音書 第1章26~38節

 

              加 藤 高 穂

 

 ユダヤ王ヘロデ(BC37-4在位)の世のことだった。子宝に恵まれなかった老祭司ザカリヤが、エルサレム神殿で香を焚いていると、神の御使ガブリエルが現われ、あなたの願いは神に聞き入れられた。妻エリサベツは、男の子を産むであろうという嬉しい知らせを齎してくれたのである。そして、五ヶ月という時が流れた或る日のことだった。

 

喜べ、恵まれた女よ

 「六か月目に、御使ガブリエルが、神から遣わされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人の許婚になっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』」(ルカ1:26~29)。

 「恵まれた女よ、おめでとう」という天使の言葉を直訳すると、「喜べ、恵まれし者」となるが、「おめでとう」と訳されているように、これは挨拶の言葉である。

 ゲッセマネの園でイエス様が捕縛されたとき、イスカリオテのユダは近づくや否や「先生、如何ですか」と言って接吻した。また、総督ピラトの官邸で兵卒たちにいたぶられ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って嘲弄される。こうした時の、「如何ですか」「万歳」と訳された言葉が、やはり「喜べ」(カイレ)となっている。

 とまれ、マリヤにとっては、天使ガブリエルの出現といい、その挨拶といい、正に青天の霹靂、予期だにせぬことだった。「この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、この挨拶は何のことであろうかと、思い巡らしていた」(ルカ1:29)とある。

 聖画、殊にバロック時代のムリーリョ、ミニャール、バトーニ等によって描かれた美しく、清らかな聖母の姿を知る私どもは、眉目麗しき乙女マリヤを思い浮かべるかもしれない。しかし、十三歳前後での若年結婚が珍しくなかった当時のことである。天使からキリストの受胎告知されたマリヤも思春期に達して間もない、田舎育ちの、純朴な少女に過ぎなかったであろう。

 その女の子が、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みを頂いているのです。

見よ、あなたは身籠って男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、称えられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼は永久にヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」(ルカ1:30~33)と、御告げを受けたのである。彼女は一瞬、気が遠くなるような眩暈を感じ、いろんな思いが脳中を駆けめぐったに違いない。

 

アンネの日記

 マリヤの年齢を思うとき、アメリカ合衆国第三十二代大統領ルーズベルト夫人のエリノアが「これはすばらしい本である」と最大級の賛辞と共に、序文を寄せた『アンネの日記』が念頭に浮かんだ。

 十三歳から十五歳までの二年間、ユダヤ人であるが故に、ナチスの目を逃れて、隠れ家生活を余儀なくされ、最後はアウシュビッツ強制収容所のガス室で殺されるべく捕まる日まで。その不断の恐怖と孤独の中に生きる日々を、情操豊かで賢く多感な少女が書き綴った日記である。「人間の精神は、終局において崇高な輝きをみせるものだ」とエリノアも言うように、思春期に入ったばかりの少女が、これ程までに色んなことを思い巡らすのかと、深い感動と共に、日記を読み終えたのを覚えている。

 天使ガブリエルの言葉を受けたマリヤの胸中もまた、推して知るべしと言えよう。肌を合わせたことすらないのに、自分が妊娠したとなれば、夫ヨセフはどう思うか。父親、母親には、どう説明すれば良いのか。五百人足らずの小さな村の人々は、…。次から次に、色んな思いが浮んでは消える。「喜べ」(カイレ)と言われたものの、キリストを宿すということは、肉の身にとっては必ずしも喜びばかりとは言えない。喜びどころか、人々からは白い目で見られ、後ろ指を差される。穢れた姦淫の女というので、石打ちにされるかも知れないのだ。思いは乱れ、不安、恐怖、心配で、マリヤの頭は混乱してしまった。そんな中、自らを奮い立たせるようにして、問いを発したのである。

 

どうして、そんな事が

 「そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。私にはまだ夫がありませんのに』。御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたを覆うでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、称えられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女と言われていたのに、はや六か月になっています。神には、何でもできないことはありません』」(ルカ1:34~37)。

 「神には、何でもできないことはありません」とは、原文では「全ての言葉は、神にあって、不可能ではない」となっている。すなわち、神が語られた言葉は、必ず実現する。具体的には、「見よ、あなたは身籠って男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」(ルカ1:31)という神からの使信・ガブリエルが取次いだ神の約束の言葉は、必ず成就するということに焦点が向けられているのである。

 

お言葉通りこの身に…

 「そこでマリヤが言った、『私は主の婢女です。お言葉通りこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った」(ルカ1:34~38)。

 この乙女マリヤの言葉と姿に、胸に熱いものを覚えずにおれない。

オーストリアの精神医学者フロイト(1856~1939)は、人の心には、私どもが普通に頭で考え、意識している部分である「自我」(ego)のみならず、意識や行動の深層には、意識できない無意識の世界が横たわっていて、この潜在意識の領域内には、社会的価値による規範概念とも言うべき「超自我」(superego)と、精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。快を求め、不快を避ける快楽原則に支配される「イド」(id)があるとした。そして、この潜在意識の領域内にある抑圧された性欲衝動(リビドー)や破壊・死への欲望が、私どもの心と行動を、どんなに大きく支配しているかを解明したのである。

 だが、私ども人間がすべからく、自己中心的な快楽原理を特徴とする潜在意識のみに支配されているとしたら、どうか。そこからは、決して人間の尊厳は感じられなくなり、人間の崇高な行動など、望むべくもなくなってしまう。

 とまれ、人間は、決して自己中心的にのみ生きるものでない。その現実を三百万人が殺されたポーランドのアウシュビッツ強制収容所において、名前も人格も剥ぎ取られ、番号で呼ばれるだけの一介の囚人として、生き地獄を体験したヴィクトール・E・フランクル(1905~1997)は、極限状況の最中で、時として人間が崇高な行動をとることに注目した。

彼は自己中心的、無道徳、性的な無意識の更に奥深い所に、もう一つの無意識があり、そこにこそ、真実の自己があることを見抜いたのである。私どもは、この真実の自己から、人間らしく高貴に振る舞うことや、人々の幸福を優先するように生きるべきことなどを、期待されている。フランクルは言う。「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」と。

 天使ガブリエルを通して、マリヤは、生ける神の恵みと祝福に満ちた使命を授かった。ときに彼女は、神に向かって自らの求めを持ち出したりはしない。「私は主の婢女です。お言葉通り、この身になりますように」と柔らかく、神の御旨を受けしめられていく。そこに待ち受けているであろう、苦しみや悩みに先立つ、神の喜びを喜びとして、神の喜びに添うべく、すべてをお委ねするのだ。私どもとて変わらない。永遠なる神の喜びを喜びとすべく、この世に生まれ、神のまなざしの下に、今を生かされているのである。

2013.9.20.