天にある資産

       ペテロの第一の手紙 第1章1~4節

            加 藤 高 穂

 

使徒ペテロから

 『ペテロの第一の手紙』は、「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」(1:1~2)と、挨拶の言葉で始まる。

ペテロはネロ皇帝(在位54~68年)の迫害に遭って殉教したとされるが、本書は彼が死を迎える紀元64年頃、ローマから小アジア(今日のトルコ共和国)南部と南東部を除く広い地域に散在していた、小さな教会に書き送った手紙である。ただ、手紙を書くに際して、「私はシルワノによって、この短い手紙を書いた」(5:12)とあるように、ギリシャ語に堪能なシルワノが代行した。宛先にある教会の信徒のほとんどは、異邦人キリスト者だったが、彼らを取巻く情勢は、日に日に緊迫の度合いを深め、危機的な状況に追い込まれていたのである。

 

迫害の素地とネロの迫害

キリスト教は当初、ローマ帝国公認の宗教であるユダヤ教の一分派と見られていた。しかし、宣教活動の進展に伴い、ユダヤ教との違いが明確となり、ネロの時代には非合法宗教とされたのである。そればかりでない。当時、一般のローマ人と信仰や社交を共にせず、その生活慣習に馴染もうとしないキリスト者は、うさん臭い連中だとして、世間から白眼視されてもいた。

 キリスト者は、円形闘技場での残酷な剣闘士の殺し合いや、官能的な愛欲が讃仰され演じられる劇場での観劇を喜ばなかった。虚弱児や望まぬ子は、捨て子をして顧みないといった風潮を厭い嫌う。平和を愛し、戦争に反対する。また、キリスト・イエスの体と血に与かるとして、パンを食し、葡萄酒を飲む聖餐式は、密かに赤ん坊の肉を食べる人肉嗜食と誤解された。人種・民族・身分・貧富など、その違いを越えて、兄弟姉妹と呼び合い、信徒間に行なわれた愛の接吻は、近親相姦や乱交の噂を呼んだ。更に、唯一神を拝し、多神教の偶像礼拝を退けると、無神論者と難じられる。主イエスの再臨と終末、最後の審判を説けば、世界の滅亡を祈る人類の敵・不逞の輩だと曲解されたのである。

 そうした折も折、紀元64年7月19日、百万都市ローマが大火に見舞われた。火は三日三晩、燃え続け、全市の三分の二が灰燼に帰した。

天を焦がす紅蓮の炎に呑まれ、市街地は次々に焼け落ちて行く。燃え盛る火の海、人々は炎に追われ、狭い路地にひしめき、逃げ惑い、泣き叫ぶ。まさに阿鼻叫喚の地獄図が現実となったのだ。その有様をネロは、宮殿のバルコニーから眺めつつ、竪琴を奏で、トロヤ滅亡の詩を吟じていたとか。新市街地建設の夢を実現するため、町を焼き払わせたとか。忌まわしい噂が人々の間に広まり、激しい怒りと憎しみがネロに向けられ、民衆が暴動を起こしそうになった。

事態の重大さに恐れをなしたネロは、側近の進言を入れ、噂をもみ消すため、ローマの伝統と公序良俗の敵として奇異の目で見られていたキリスト者に、放火の罪をかぶせて、十字架に磔にしたり、火炙りにしたり、獣の皮を着せて猛獣に噛み殺させたりして、キリスト者を弾圧し、迫害したのである。

 こうして、キリスト者というだけで身の安全を奪われ、生命の危険に曝されることになった人々に向け、この手紙は書き送られた。だが、深刻な迫害の嵐の最中にあって、手紙の本文は、最初から高らかな神讃美で始まるのである。

 

ほむべきかな

「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かな憐れみにより、イエス・キリストを死人の中から甦らせ、それにより、私たちを新たに生れさせて生ける望みを抱かせ、あなた方のために天に蓄えてある、朽ちず汚れず、凋むことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」(1:3~4)。

 かつて田中遵聖先生は「信仰はアサである。夕を通り、真夜中を通り過ぎ、曙を迎えて来るものではない。最初からアサである。アサは経過も計画も人間の状態も無視しているかの如く、圧倒的光の

存在である。アサは既に臨んでいる。仰ぎ受けよ、と呼びつつある」と書き残された。

「ほむべきかな」とは、正にこの圧倒的な光を拝した者、その光を受けしめられた者の口から迸り出た讃美であり産声なのだ。苦悩から歓喜へ、暗黒から光明へといった人生の有為転変、信仰の歩みを経た結果、高らかな讃美が上がるのでない。最初から「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神」と、神讃美で始まっている。

何故に、これ程に力強く、危機も、迫害も、剣も、死も恐れない讃美が齎されるのか?

それは、「神が、その豊かな憐れみにより、イエス・キリストを死人の中から甦らせて下さった」からである。この主イエス・キリストの復活という事実を受けたそこに、神の憐れみが圧倒的な光となって満ち溢れて来るのだ。

今生きている私どもは、やがて「生きていた」と、過去形でしか語られなくなる日が来る。だが、死と滅びの向こうから、時空の彼方から将来する、主の復活の光に照らされると、死が死で終らない永遠の生命に生きることを確証させられるのだ。かくて、私どもは新たに生きる力を受けて、生き生きと息吹する、揺るぎなき希望に燃え立たせられる。上よりの「新生」(再生)に与かるのである。

 

レ・ミゼラブル

 正月、里帰りをした娘に誘われ、妻と三人、何年かぶりに映画を観に行った。フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの長編小説『レ・ミゼラブル』を基に、世界各国でロングラン上演されてきたミュージカルが、トム・フーパー監督の下、映画化されたものだった。

 物語は、あまりにも有名だが、貧しさと飢えに苦しむ甥たちを救おうとして、たった一つのパンを盗んだ咎のため、19年間も獄中生活を送ったジャン・ヴァルジャンは、1815年10月の或る日、社会に対する激しい憎しみを抱いて出獄する。世間の風は冷たく、仮出獄許可証をもった男など容易に受け入れてはくれない。

飢えと寒さに震えつつ教会の軒下にうずくまり、一夜を明かそうとしていた彼を見つけた老司教ミリエルは、彼を招きいれ、温かい食事とベッドで迎えた。その夜、ジャン・ヴァルジャンは、家人が寝静まるのを見はからって、司教の家にあった唯一貴重な銀の食器を盗んで逃げたのである。

翌朝、憲兵に捕まった彼が、ミリエル司教の許に引っ立てられてくる。すると司教は、「やあ!あなたでしたね!」と彼を見詰めながら言うと、「お会いできて、嬉しいですよ。ところで、燭台もあげたのだが、…どうして食器と一緒に持って行かなかったのです?」と、彼の罪をかばい、救ってくれたのである。無罪放免され、呆然と立ち尽くす彼に、司教は言った。

「私の兄弟ジャン・ヴァルジャンよ、あなたはもう悪の味方ではなく、善の味方です。あなたの魂を、私は買います。暗い考えや、破滅の精神から引き離して、あなたの魂を神に捧げます」(佐藤朔訳)。

 こうして彼は、司教の慈愛にふれて、愛の精神にめざめ、今までとは違った、新しい人生に生まれ変わる。過去を恨み、憎しみに生きていた人間が、一変して、神を目ざす魂に生まれ変わったのだ。

 

天に蓄えてある資産

新生したキリスト者が持つ、「天に蓄えてある、朽ちず汚れず、凋むことのない資産」(1:4)とは、何か。それは、端的には神ご自身であり、主イエス・キリストご自身に他ならない。

実に主なる神にあって、私どもは、過去から現在、未来へと過ぎ去り、死に終る流れではない。永遠の未来から流れ来て、新しい生命と希望に生かし給う、確かな宝を賜わっているのだ。

2013.1.20.