御心が成りますように

            ルカによる福音書 第22章39~48節

 

                加 藤 高 穂

 

 最後の晩餐の席だった。イスカリオテのユダは、主イエスに「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われるや、弾かれたように外に飛び出し、夜の町に姿を消した。この時、ユダは官憲と裏取引を行ない、イエスを銀貨三十枚で売ろうと、約束を交わしていたのである。極秘の内に事を運んだ積もりだった。だが、主イエスの目は誤魔化せない。裏切りは、とっくに見抜かれていたのだ。ばれたからには、急がねばならぬ。さもないと、全て水の泡と化す。ユダは夜の道を直走りに走った。

こうしてイエス様の傍には、僅か十一人の弟子が残っただけだった。しかも誰一人、ユダの企みに気づいた者はない。まして況や、イエス様の胸の内を知る者など、皆無である。それどころか、脳てんきにも自分たちの中、誰が一番偉いだろうかと、言い争いをおっぱじめるありさまだった。興味と関心は、いつも自分の事だけ。何があろうと、私どもは、自分中心にしかモノが見えないのである。

 イエス様は、そんな弟子たちをさえ、「あなた方は、私の試錬の間、私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」(ルカ22:28)とねぎらいつつ、自ら十字架の死を受けて、弟子たちが啓かれる時を待っていて下さるのだ。

 乗馬には、四種の機根があると聞く。第一は、鞭の影を見ただけで走るもの。第二は、鞭が尾に触れるや走りだすもの。第三は、鞭が体に触れると驚いて走るもの。第四は、拍車が体を刺して走り出すものといった別である。弟子たちを思えば、駑馬そのものだった。

しかし、駑馬には駑馬の美質がある。鞭の影を見ただけで、主の御旨を察する名馬の俊敏さと能力は無くとも、復活の光を受けて、ひとたび霊眼開けるや、主の御旨のままに、上より賜わる己れの道を、不器用なままに、どこまでも歩み続けることになる。やがて、その日が弟子たちに訪れるのを見据え、駄馬そのものの弟子を受けて下さるのだ。主イエスの愛と慈しみを、覚えずにおれない。

 それはともかく、過越の食事は、ハレル歌集と呼ばれる詩篇115~118篇を讃美して閉じられる。讃美と共に最後の晩餐を終えたイエス様と弟子たちは、オリブ山に向かった。

 

この杯を取去り給え

 「イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、『誘惑に陥らないように祈りなさい』。そしてご自分は、石を投げて届くほど離れた所へ退き、跪いて、祈って言われた、『父よ、御心ならば、どうぞ、この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私の思いではなく、御心が成るようにして下さい』。その時、御使が天から現れてイエスを力づけた。イエスは苦しみ悶えて、益々切に祈られた。そして、その汗が血の滴りのように地に落ちた」(ルカ22:39~44)。

 いつもの祈りの場所に着くと、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と弟子たちに言葉を掛けられると、ご自身は、石を投げて届くほど離れた所へ退き、跪いて、祈られた。

どれだけの時間が経過したか。ルカは、祈り給うイエス様の姿を、「イエスは苦しみ悶えて、益々切に祈られた。そして、その汗が血の滴りのように地に落ちた」と伝えている。

更に、この時、「御使が天から現れてイエスを力づけた」と語る。最早、如何なる人間も、肉にある主の苦しみを和らげることはできず、ただ天使のみが辛うじて力づけることができたのだ。祈り給う主イエスの汗は、血の滴りのように地に落ちたとある。比類ない祈りの凄まじさだが、その祈りは、畢竟「私の思いではなく、御心が成るようにして下さい」に尽きていた。

 私ども肉なる存在は、何処まで行っても罪を離れることはできない。その罪の報酬は死であると、パウロは言い、「誰が、この死の体から、私を救ってくれるだろうか」(ロマ7:24)と、悲痛な叫びを上げた。この死すべき存在は、どうしたら救われるのか。

 

人生の苦は欲に始まる

 インドのシャカ族の王子としてカピラ城に誕生した釈迦牟尼は、生後間もなく母を失い、叔母の手で養育された。16歳で結婚、一人息子を授かり、何不自由ない、豊かな生活を送っていた。だが、その内面は、決して平穏ではなかったのだ。ある日、城門を出た彼は、老人や病人、死人の姿を目の当たりにして、その姿が、脳裏を離れなくなる。若く健康な自分も、やがては年老いて病を得、死んでいく。彼の魂は鬱々として楽しまなくなってしまう。この人生の苦しみを解決すること無くして、私どもに救いはない。

彼は29歳の時、突然、妻子を捨て、城や地位、財産など一切を捨てて、求道の旅に出る。そして、難行苦行の果て、35歳頃、ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開いたのである。

人生の苦しみは、欲望に起因するという真理に達した彼は、欲愛(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)や有愛(死を苦しみとさせる存在への執着)、無有愛(破滅への衝動、無への欲望)といった欲望を絶つことによって、苦の世界から脱却した。

 

御心が成りますように

 だがしかし、主イエスの「私の思いではなく、御心が成るようにして下さい」という祈りは、もはや自分が生きるとか救われるといった、人間側から発する願いや求めが奪われている。神が神として、崇められることが、第一となる。

 而して、この祈りは、上から臨み来る祝福と恵みに始まる祈りなのだ。父なる神と御子イエスが向い合う、密なる通いに生まれる讃美なのである。

 御心はすでに天において成就している。その永遠の祝福と恵みを携えて、主イエスは立ち上がり、弟子たちに近づかれた。

 

恵みと祝福の流れに

 「祈を終えて立ち上がり、弟子たちの所へ行かれると、彼らが悲しみの果て寝入っているのを御覧になって言われた、『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい』。イエスが未だそう言っておられる中に、そこに群衆が現れ、十二弟子の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。そこでイエスは言われた、『ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか』」(ルカ22:45~48)。

 イエス様が「起きて祈っていなさい」と、弟子たちに声を掛けられた。その時だった。

 暴力革命の首領に対するかのように大層な出で立ちで、剣や棒で武装した神殿警察を始めとする一群の人々が近づいてきた。見れば、十二弟子の一人だったユダが先導している。それも、主イエスに心からの愛を示すかのように、接吻しようとして近づいてきた。

「ユダ、お前は接吻をもって、人の子を裏切るのか」。

 これが、生きてユダが耳にした、主イエスの最後のお言葉だった。彼は「不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへ真ッ逆さまに落ちて、腹が真ん中から引き裂け、腸が皆流れ出てしまった」(使徒行伝1:18)と伝えられる。

 ユダは、己が欲望を実現せんと主イエスに近づき、利用せんとした。だが、その夢が果せぬと知った時、主イエスを捨てた。彼にとって、神はあくまで自分の欲に仕えるべき存在だったのだ。かくてユダは、滅びと死を自らに招いてしまったのである。

 然るにイエス様は、「我が思いではなく、御心が成りますように」との祈りの中で、十字架にかかられた。そして、十字架に御血潮を流しつつ神だけが勝利する世界を、示していかれたのである。自分が生きる処に、真の救いはない。

主イエスは、「十字架を負うて、私に従って来なさい」(マタイ16:24)と言われる。何処まで行っても欲まみれ、神を殺す者、罪人でしかない死の体を、先ず主に捧げてしまえ。神に奪われて来なさいと言われる。生くるも死ぬるも、みな主のもの。一切を主にお委ねして、主だけが主、神が神として生き給う。その恵みと祝福の流れにこそ、共に生かされて参りたい。

2016.9.20.