流れ出る生きた水
ヨハネによる福音書 第7章37~39節
加 藤 高 穂
我に来たれ
「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『誰でも渇く者は、私の所に来て飲むがよい』」(ヨハネ7:37)。
ユダヤの人々にとって、祭といえば「仮庵(かりいお)の祭」を意味した。農作物の収穫期、人々は畑地にテントを張り、一週間、汗みずくになって作業を行った。
「仮庵の祭」は、その収穫感謝祭であると共に、昔、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルは、四十年間シナイ半島の荒野を流浪して、天幕生活を余儀なくされた。その間、神は、民が飢えた時には天からマナを降らせ、渇いた時には岩を裂き、奇跡的に水を注ぎ出して命を養って下さった。その救いの神に感謝する祭でもある。さらに、あの日あの時のように、私どもに恵みの水を与え給えと祈る雨乞いの祭でもあった。
この祭を祝うとき、人々は一週間、自分の家を出て、木の枝や葉を用いて作った仮小屋の中で生活した。
「祭の終りの大事な日」とは、一週間ぶっ通しで祝う祭の最終日のことで、この時、祭は最高潮に達する。町中に溢れかえった人々は、豊穣なる大地の恵みに感謝し、収穫の喜びに興奮状態となり、酔い、歌い、踊っては、この世の喜びを爆発させ、有頂天になっていた。
その大群衆に向かって、主イエスは立って「誰でも渇く者は、私の所に来て飲むがよい」と叫んで言われたのだ。しかし、その叫びを、誰が聞いたか?
イエス様の声は、ごった返す人、人、人の波と、周りの喧騒に呑まれ、虚しく消えた。その声に聞く者は、皆無に等しい。人々は主イエスを無視し、その叫びを聞き捨てにしたのである。挙句の果て、キリスト・イエスを十字架上に釘付けにして、御声を封殺したのだ。
そんな中、当時も今も、祭の喜びに浸ることはおろか、心の飢えと魂の渇きに日夜、苦しむ人がいる。その人々に、虚空に消えたと思われた主イエスの御声が届くのである。
信仰とは何か。今もなお生きて働く、キリストの声に出会うことに他ならない。その呼びかける御声に聞くとき、十字架にかかり給うた主イエスが、鮮血を流しながら「我に来たれ」と叫びつつ招いておられるのを、ありありと覚えしめられるのだ。
生ける水が川となって
「『私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。誰でも渇く者は、私の所に来て飲むがよい』」(ヨハネ7:38)。
「その腹から」(out of the belly of him)とある「その腹、即ち彼の腹」とは、一体、誰を指しているのか。それが、解釈上のひとつの問題となっている。確かに、文章の流れをみれば、私を信じる者、すなわちキリスト者と見るのが、自然かもしれない。
だがしかし、私どもの誰が「己が腹から、生ける水が川となって流れ出る」などと言い得ようか。生ける水とは、主イエスの御霊である。十字架の主の御血潮をいうのだ。主イエスの御霊を受けると、わりわりと前進する力が生まれる。心が燃え立ってくる。過去につながれ、身動きならなかった自分が、新たに立ち上がる力を受けるのだ。土壷を這い出し、未来に向って、力強く歩みだす活力が、むくむくと内に湧いてくる。それが、今、ここに始まっているのだ。
主イエスは、「我に来たれ」と呼び給う。その声に応ずるや、地獄の底が割れて、汲めど尽きせぬ清冽な命の水が噴き上げてくる。永遠の命に至る水が、湧き上がって来るのだ。この一年、日々新たに、主イエス・キリストの生ける命の水に潤されて参りたい。
〔2017.1.20.〕