長血の女の癒し
マルコによる福音書 第5章25~34節
加 藤 高 穂
ガリラヤ湖東岸にあった異教徒の町デカポリスで、レギオンと名乗る悪霊憑きのゲラサ人を癒したイエス様は、再び舟でカペナウムに戻って来られた。それを知った夥しい数の群集が、湖岸に集まってイエス様を喜び迎えたのである。
なかんずく、今や遅しと主イエスをひたすら待っていたのが、会堂司ヤイロだった。それというのも、ひとりっ子で、十二歳になる愛娘が瀕死の状態で、病の床にあったからである。
イエス様が舟から浜辺に降り立つや、人混みの中から飛び出し、イエスの足下にひれ伏すと、「私の幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子が治って助かりますように、お出でになって、手を按いてやって下さい」と願い出た。
その願いを受けたイエス様が、ヤイロの家に向かうとまもなく、娘が最後の息を引き取ったと、悲報がもたらされたのである。駄目だったか!呆然自失の体で立ち尽くすヤイロに、主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と声を掛けられた。
ヤイロの屋敷に着くと、葬りの準備でごった返す中を、主は娘の父母とペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴い、遺体が安置された部屋に入って行かれた。そして冷たくなった子供の手を取り、「タリタ・クミ」(少女よ、起きよ!)と声を掛け、死んだ娘を甦らされたのだ。
話は前後するが、ヤイロの家に向かう途中、ひとりの女性が先を急ぐイエス様の足を止めたのである。
長血を患う女
「さてここに、十二年間も長血を患っている女がいた。多くの医者に掛かって、散々苦しめられ、その持物をみな費して仕舞ったが、何の甲斐もないばかりか、反って益々悪くなる一方であった」(マルコ5:25~26)。
神の選民イスラエルが、大切に守っていたモーセの律法五書の一つ『レビ記』15章25節には「女にもし、その不浄の時の他に、多くの日に亘って血の流出があるか、或いはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、全てその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である」と定められていた。
血の流出は、婦人科の病気だったが、ユダヤでは、とても忌み嫌われた。生き物の命は、血の中にあると信じられていたからである。血の流出と共に、命はどんどん尽きていく。こればかりは、莫大な富を積もうと、音に聞く名医であろうと、食い止めることはできない。そんな女性は汚れた者で、触れてはならないのだ。
そのため、血の流出のある女性は、社会生活から疎外され、日陰者として生きることを余儀なくされた。社会生活に復帰するには、血の流出が止まって七日を数え、祭司の証明を受け、贖いの捧げ物をして、はじめて社会生活や礼拝生活に復帰することができた。それほど、この病気は人々に忌み嫌われたのである。
ここに登場した女性は、十二年間も血の流出が止まらぬまま、呪われた時を過ごして来ていた。その間、業病から解放されたい一心で、多くの医者に掛かったが、何一つ効果なく、散々苦しめられ、全財産を費して仕舞ったのである。
しかも病状は、益々悪くなる一方であった。最早、肉体的、経済的、精神的に破綻していた。だからとて、礼拝に参加することもできない。人に近づくことも、神に近づくことも許されないという、絶望的な情況に置かれていたのである。
冬の旅
若き日、何度も聴いたレコードに、オーストリアの作曲家F・シューベルト(1797~1828)の連作歌曲集『冬の旅』がある。ドイツの詩人W・ミュラー(1794~1827)の詩集『冬の旅』に曲をつけたもので、シューベルトは死の前年に作曲している。
恋を失った若者が、失意と悲しみに打ち拉がれて、雪の降り積もった野末の道をあてもなく彷徨って行く話である。彼は夜明け前に町を去る。身を切らんばかりの冷たい風に吹かれながら、雪と氷の世界をひたすら恋を忘れようとして歩いていく。やがて若者は絶望の故に、狂気の兆しを見せ始める。悩みの果てに死を願っても、行きずりの墓場に入る余地はなく、最後は道端に物乞う老楽手と手を引き合って、雪の中をよろめきながら消えていく。
生きることも死ぬことも許されず、ひとすじの光も見えない、暗澹たる若者の絶望が歌われている。シューベルトは、死を間近にした最後の日々に、この曲集の校正をしたという。
ひとかけらの救いの光も見えず、十二年という長きにわたり、神からも人からも見捨てられたとしか思えない、絶望的な暗黒の日々を送ってきた女性の悲惨は、如何ばかりだったろうか。
そんな彼女の耳に、主イエスの噂が飛び込んできたのである。それは、あたかも暗黒世界の彼方から射し込む暁の光のように感じられたであろう。
着物に触ったのは誰か
女は居ても立ってもおれなかった。律法に違反する汚れの身をも顧みず、家を飛び出すと、大勢の群衆に紛れ、背後から主イエスに近づいた。そして、そっと御衣に触ったのである。
その瞬間、患部に電流が走り、熱く痺れるような感覚がしたと思うや、女は血の元が乾き、病気が治ったのを実感した。とんでもないことが、起きてしまったのである。
時に女は、癒された喜びを圧倒する、途方もない恐れと慄きに顔面蒼白となり、全身がぶるぶる震えだすのを禁じえなかった。
「イエスは直ぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『私の着物に触ったのは誰か』と言われた。そこで弟子たちが言った、『御覧の通り、群衆があなたに押し迫っていますのに、誰が触ったかと、おっしゃるのですか』。しかし、イエスは触った者を見つけようとして、見回しておられた」(マルコ5:30~32)。
私の着物に触ったのは誰か?主イエスは、立ち止まって見回された。弟子たちは、その主を厳しい口調で嗜めた。群衆が押し迫っているのに、誰が触ったかなど、分かる筈がないと言ったのである。
ところが、イエス様は、誰が触ったかは知っておられた。自分の内部から力が出て行ったのを、何よりも強く感じておられたからである。それとは知らぬ弟子たちの言葉を聞き流された主は、ご自身から流れ出た御霊の力を受け、難病を癒された女性が、自ら名乗り出るのを待っておられたのである。
主イエスの救いは、肉体の癒しのみに止まらない。身も、心も、魂も含めた丸ごとの人間、その全人格・全存在に関わっているのだ。なればこそ、長血を癒されたという小成に安んじるだけでは、神の祝福と恵みの豊かさの前では、あまりにも卑小に過ぎよう。
汝の信仰、汝を救へり
「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れ慄きながら進み出て、御前に平伏して、全てありのままを申し上げた。イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかり治って、達者でいなさい』」(マルコ5:33~34)。
女は、すべてを見通す主イエスの目ざしに合うや、何一つ隠し立てはできない。恐れおののき、身を震わせながら進み出ると、御前に平伏し、罪の身のまま、汚れの身のまま、御顔を振り仰ぎ、ありのままを告白したのである。それからは、涙、涙、涙で言葉にならなかった。
すると、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。平安の中に行きなさい。病癒えて健やかになれ」と重ねておおせられたのである。
女に注がれる主イエスの眼差しは、どこまでも温かかった。罪に震え、胸の内をさらけ出した女を、愛と慈しみに溢れた御声が優しく包んだ。イエス様にすがる以外に、どうしょうもない身だった。
それを、「あなたの信仰」と言われても、それは自分から発するものでないのを、如実に知らされていた。主イエスから臨み来る一方的な恵みであり、祝福だった。主が、心と魂を平和と歓喜で満たして下さったのである。その感謝と喜びは、生涯消えることはなかった。