十字架の道行き
マルコによる福音書 第15章21~28節
加 藤 高 穂
十字架の道
ローマ総督ピラトからイエス様を引き渡された兵卒たちは、十字架にかけるに先立ち、散々嘲弄し侮辱の限りを加えた。それから、総督官邸中庭からイエス様を引出すと、郊外の処刑場ゴルゴタの丘に向かったのである。四人の兵士の中空方陣の真ん中に入れられ、重さ80㌔を超える十字架の横木を背負い、イエス様はヴィアドロ・ローサ(悲しみの道)を歩み行かれた。
しかし、昨日来のゲッセマネの園における徹夜祈祷、十二弟子のひとりイスカリオテのユダの裏切りによる逮捕。更には大祭司カヤパ邸での深夜と早朝の違法な宗教裁判。罪名を歪曲し、不当にもローマ総督に訴えて行われたピラト膝元での不当な裁判によって十字架刑の判決が下された。
十字架刑は、先ず鞭打ちに始まる。尖った骨片や鉛が埋め込まれた皮の鞭で、裸の背中を何度も容赦なく打ち据えるのである。肉は削がれ、傷口はずたずたになり、それだけで絶命する者も稀でなかったという。それから、兵士たちの嘲弄といたぶりが続いた。いかに強靭な体と不屈の意志の持主であろうと、身心ともに極限状態に達していたであろう。
しかも、茨の冠をかぶらされ、鞭打ちで裂けた背中にささくれ立った重い十字架の横木を負うて、イエス様は一歩また一歩、よろける足を踏みしめ、刑場への道を歩んで行かれた。そして遂に、膝から崩れ落ちてしまわれたのである。兵士たちは、イエス様に怒声を浴びせ、鞭を振るい、どうにかして立ち上がらせようとしたが無理だった。やむを得ぬ。ローマ兵は辺りの群衆を見回した。
クレネ人シモン
「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。そしてイエスをゴルゴダ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った」(マルコ15:21~22)。
ローマ兵は、群衆の中に色浅黒く人よりも頭一つ抜き出た屈強な男の姿を見つけると、槍の穂先で男の肩を軽く叩いた。出て来いという強制徴用の合図である。彼はアフリカのクレネ(現リビアのトリポリ)から、過越祭に参加すべく、少しずつお金をため、念願叶ってエルサレムにやって来ていたのだ。
この祭には、二百数十万人が集まる。標高800㍍、岩石丘上に立つエルサレムに、それだけの人を泊める所はない。シモンは郊外に宿をとり、その朝早めにやって来た。すると、沿道の人だかりである。何事かと群衆の中に分け入ったのが、運の尽きだった。
何たることか!悲運を歎いても、誰も助けてはくれぬ。憤懣やる方ないといった顔で兵士を見やり、苛立たしい思いで、路上に膝をつき動けなくなった死刑囚の男を見やった。
ところが、どうか。忌々しく、嫌でたまらずに背負った十字架である。それが機縁となり、後日、シモンとその妻、また二人の息子アレキサンデルとルポスまでが、キリスト者になろうとは、…。何で自分がと、苦々しい思いで担いだ十字架である。それが、祝福の注ぎ口になったのだ。
最初は分からなかったであろう。私どもがイエス様に召され、キリスト者となるのも、十人十色、それぞれ色々な機縁がある。だが、人生の痛み、苦しみの只中にあって求めて泣き叫んでいた時、苦しみの向こうから、思いもしなかった光が射してきて、救いに与かる経験をする。
とまれ、『マルコによる福音書』が書かれたのは、紀元64年のローマ皇帝ネロの迫害を身近に経験した翌年頃のことだった。教会の柱と目された使徒ペテロやパウロが、相次いで殉教の死を遂げていた。身近な教会の同志からも、殉教者が相次いだ。その熾烈な迫害の恐怖から、棄教する者も少なくない。そんな中、キリスト者は、夜、真っ暗なカタコンベ(地下墳墓)で、世を忍び、命がけで礼拝を守っていたのである。
これから教会と自分たちは、どうなるのかと、不安に包まれてもいた。そんな恐怖と動揺の中に生きるキリスト者を鼓舞激励すべく、緊迫した空気の中で書かれたのが『マルコによる福音書』なのである。
私のために泣くな
さてクレネ人シモンは、十字架を背負うと、イエス様の後から衆人環視の中、ゴルゴタの丘まで着き従って行った。
ところが『ルカによる福音書』は、シモンのみならず「大勢の民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。イエスは女たちの方に振り向いて言われた、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなた方自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい』」(23:27)と書き加えている。
女たちは、世にこれ程の悲しみはないとばかりに、悲痛な叫びと泣き声を上げ、とめどなく涙を流しながら、イエス様とクレネ人シモンの背後に従っていた。
その時、主イエスは振り返り、女たちに顔を向けられると、それまでの沈黙を破り、「私のために泣くな。あなた方自身のため、子供たちのために泣け!」と、警告されたのである。
これは、一体、どういうことか。間違ってはならない。イエス様は自分のため、お涙頂戴の同情など、ひとしずくも求めてはおられないのだ。ならば、何故に、イエス様は十字架に死のうとしておられるのか。それは、私どもの罪の価、永遠の死と滅びを身に受け、私どもを救いに渡すために他ならない。生ける神を拒み、神の独り子なる主イエスを打ち捨て、滅びの道を突き進む私どもが神に立ち帰り、十字架の恵みに歓喜の涙を流すのをこそ待っておられるのだ。こうして、イエス様は、処刑の地ゴルゴタに行き着かれたのである。
十字架につけた
「そしてイエスに、没薬を混ぜた葡萄酒を差し出したが、お受けにならなかった。それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、誰が何を取るかを定めた上、イエスの着物を分けた。イエスを十字架につけたのは、朝の九時頃であった。イエスの罪状書きには『ユダヤ人の王』と、記してあった。また、イエスと共に二人の強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。〔こうして「彼は罪人たちの一人に数えられた」と書いてある言葉が成就したのである〕」(マルコ15:23~28)。
十字架刑が執行される時、酷い痛みを和らげるため、死刑囚に没薬を混ぜたぶどう酒が与えられた。だが、イエス様は、それを受けようとされない。罪に死ぬ私どもの痛みと苦しみを、極みまで味わい尽くすことで、この世の痛苦の全てを自らに受け、私どもを支え給うのである。
こうして、イエス様は、午前9時に十字架に磔となられた。罪状書きには古代世界の三大言語であるヘブル語・ラテン語・ギリシャ語で「ユダヤ人の王」と記されていた。
十字架の下では、兵卒たちが、人の痛みなどどこ吹く風とばかりに、サイコロ賭博に興じていた。彼らにはイエス様の死など、身につけておられた着衣の一つほどにも、眼中にない。
ならば、イエス様の左右に十字架につけられた強盗は、どうだったか。彼らは、他ならぬ主イエスの代わりに釈放されたバラバの仲間だったと、推測されている。あの最凶悪だったバラバは解放されたのに、どうして自分たちは惨めな死を身に受けなければならないのかと、憤懣やる方ないとばかりに、イエス様に不満の石礫を投げつけた。
詩篇記者は歌って言う。「私は虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。すべて私を見る者は、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振り動かして言う、『彼は主に身を委ねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ』と」(詩篇22:6~8)。
こうして、イエス様は、自ら罪人以下、虫けら同然の、ドン底にまで身を低くして、私どもを救いに渡し給う。私どもの懊悩痛苦の限り、死と滅びを受けて、救い給う。この主イエス様の恵みの中に、感謝の日々を、共に歩ませて頂きたい。