誰の肖像、誰の記号か
―神のものは神に返しなさい―
マルコによる福音書 第12章13~17節
加 藤 高 穂
イエスを捕えようと
「さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスの許に遣わして、その言葉尻を捕えようとした」(マルコ12:13)。
イエス様を敵視し、亡き者にせんとしていたサンヘドリン議会(祭司長、律法学者、長老の70人で構成するユダヤの宗教的・政治的な最高権威)は、パリサイ人とヘロデ党の者数人を主イエスの許に遣わし、言葉尻を捕えようとした。
ローマ帝国の属領となっていたユダヤには、死刑の権限がない。そのため、ローマ官憲に訴える決定的な口実を得て、イエス様を殺そうとしたのである。
パリサイ人というのは、ユダヤ教の有力な分派で、ヘブル語「パーラシュ」(分離する、離れている)に由来する名称である。律法の遵守に無関心な大衆から自らを区別したのが、その名の由ってくる所だと聞く。彼らは、神の民イスラエルの不信仰を嘆き、信仰の純潔を守ろうとした。そのためには、たとい不遇の身になろうとも厭わない。こちこちの律法主義者である。
一方、ヘロデ党というのは、イエス様誕生当時のヘロデ大王(在位・前37~前4)の領土と王の称号を得て、往時の繁栄再現をもくろむヘロデ家の支持者たちだった。それというのもヘロデ大王の死後、ローマ皇帝は、息子たちを「王」から「領主」という身分に格下げして、大王の領地を三分。息子たちに分割統治させた。すなわち、アケラオはユダヤ、サマリア、イドマヤの領主。へロデ・アンティパスはガリラヤ、ペレヤの領主。ピリポはイツリヤ・テラコニテ地方の領主となった。
だが、長男アケラオは、大変な暴君だったため、わずか数年で島流しとなり、ユダヤはローマ皇帝直属の総督が統治していた。これを何とかして、ヘロデ家に取り戻し、しかも「王」として独立するようにしたいというのが「ヘロデ党」の悲願となったのである。彼らは、ローマ権力に支配されている現実を見据え、その中で自分たちの生きる道を求めていた。
いずれにせよ、いつもは反目しあっていたのが、パリサイ人とヘロデ党だった。だが、イエス様を殺害するという目的のためには手段を選ばず、敢えて手を結んだのである。そしてサンヘドリン議会の権威を強力な後ろ盾に、主イエスの許にやって来たのだ。
カイザルへの納税の是非
彼らは物腰やわらかに、謙遜そのものの言葉遣いで、イエス様に近づいた。慇懃無礼という言葉がある。うわべは丁寧そのものだが、内実は尊大で相手を見下している。だが、そんな素振りは微塵も見せない。
「彼らは来てイエスに言った、『先生、私たちはあなたが真実な方で、誰をも、憚られないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理にもとづいて神の道を教えて下さいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか』」(マルコ12:14)。
「人に分け隔てをしない」とは、原文では人の顔を見ないとなっている。人の顔色をうかがい、気兼ねや差別をされない。何よりも真理にもとづいて神の道を教えて下さると、実に行き届いた口上と挨拶である。
だが、そのうやうやしい態度と裏腹に、彼らはイエス様を神の子、キリストと認めていた訳でない。口先だけ、肝心の心がないのだ。持ち上げるだけ持ち上げて、答えざるを得ないようにするための方便に過ぎない。
案の定、彼らは匕首さながらの鋭い問いを突きつけてきた。カイザルに税金(=人頭税のこと)を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうかと、問うてきたのだ。
人頭税は、14歳から65歳の男子、12歳から65歳の女子が納めるもので、その額は1デナリだったという。ローマ皇帝カイザルに税金を納めるのは、はたして律法に適っているのか。どうか教えて欲しいというのである。
この如何にも謙遜な問いには、イエス様を瞬時に死に至らせる毒針が隠されていた。もしもイエス様が、人頭税は納めなくてよいと答えたら、直ちにローマ政府にとって危険な反逆者だと訴えでて、葬り去ることができる。
反対に税金は納めるべきだと言えば、すぐさま民衆に知らせるまでだ。人々にとって、税金は決して喜ばしいものでない。まして況や、ユダヤの民は、真の神を王と仰いでいた。異教の支配者に税金を納めるというのは、その王権を認めることに他ならず、神の神聖を侵すものと考えていた。とりわけ熱心党(ゼロータイ)など過激派の人士は、異邦の王に税金を納めるのは悪だと公言して、ローマ権力に反抗し、その支配に屈するのを潔しとしなかった。
そうした空気が渦巻く中、人頭税は納めるべきだと、イエス様が答えられたら、どうなるか。声望並ぶものなき名声は、たちまち地に落ちてしまう。
払うべきだとも、払うべきでないとも答えようがない。いずれにせよ、イエス様は絶体絶命の窮地に追い込まれる。そう確信したパリサイ人とヘロデ党の者たちは、肚の底でにんまりすると、どうだと言わんばかりにイエス様を見やった。
偽善を見抜いて
「イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、『なぜ私を試そうとするのか。デナリを持って来て見せなさい』。彼らはそれを持って来た。そこでイエスは言われた、『これは、誰の肖像、誰の記号か』。彼らは『カイザルのです』と答えた」(マルコ12:15~16)。
自分たちは、紛れもなくローマの権力下に生きているのに、それを棚に上げて、「あなたはローマの権力に従って生きて良いのか」と問うて来たのだ。
イエス様は、即座に彼らの偽善、その言葉の裏に隠された毒針を見抜いて、「なぜ私を試そうとするのか。デナリを持って来て見せなさい」言われた。そして銀貨を受取ると、彼らの目の前に差し出し、「これは誰の肖像、誰の記号か」と反問されたのである。
古代社会において、貨幣は王権の象徴でもあった。王座に就いた王は、直ちに貨幣を鋳造させたという。時のローマ皇帝は、ティベリウス(在位14年~37年)である。主イエスが手にされたデナリ銀貨の表には、月桂冠を戴いたカイザル・ティベリウスの横顔と称号が刻まれていた。彼らは「カイザルのです」と答えた。
神のものは神に返せ
「するとイエスは言われた、『カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい』」 (マルコ12:17)。
イエス様は、彼らの答えを肯うと、返す刀でカイザルのものはカイザルに返せと仰った。と、次の瞬間、切っ先鋭く彼らの急所を刺し貫かれたのである。彼らは、声を立てることもできなかった。
「神のものは神に返せ」とは、何か。この世には、神の姿が刻まれている存在があるというのだ。
創世記冒頭『天地創造』の記事には、万物を創造された神が、人を創造される場面を、次のように記す。「神はまた言われた『我々の像に人を創造された。すなわち、神の像に創造し、男と女とに創造された』」(創世記1:27)。
私どもが男として或いは女として生かされているというのは、人間が孤独な存在でなく、相異なる人が、共に生きるように創造されていることを意味する。
また、神の像に創造されたというのは、私ども一人一人に、神の姿が刻まれ、神の銘が打たれているということである。なればこそ、私どもは本来、神のものであって、自分のものでない。カイザルであろうと、例外でない。いつの世であれ、絶大な権威を委ねられた者には、相応の責任と使命が生まれる。神に忠実であることを求められるのだ。
とまれ、私どもは全て、神に生命を託され、神からお預かりした人生を生きている。そこで大切なことは、自分に切れて、自分自身を神にお返しすることであろう。そこに生きてこそ、私どもは人と共に生きる喜びと真の自由を、受け知らされるのである。