「梅と

               加 藤 高 穂

 

   濃紅梅日は関門の海に映え

 

   山藤の揺れて夕星光りそむ

 

 最初の句は、かつて西村和子氏が主宰する「知音」の、壇の浦吟行句会に参加した折に詠んだものである。関門海峡の早潮に流されてゆく千切れ和布を目の当たりにして、海の藻屑と消えていった平家の女官たちの黒髪を連想させられた。

 とりわけ高倉天皇の中宮として入内、安徳天皇の母となった建礼門院(平清盛の娘・徳子)の姿などを彷彿していた。源氏の勢いに呑まれ、平家の命運が尽きんとする1185年3月24日のことである。

8歳の安徳帝が、二位の尼(清盛の妻・時子)に「我をいずこへ連れて行くのか」と仰せられると、「御運はもはや尽き果てました」と念仏を勧め、「波の底にも都がございます」と慰めるや否や、幼帝を抱いて海中に身を躍らせ、千尋の波の底へ沈んでいった。建礼門院は、その有様を見て、今はこれまでと海に身を投げるが、心ならずも源氏の兵の熊手に黒髪をかけられ、舟に引き上げられてしまう。

 かくて平家にあらずば人にあらずと、驕り高ぶった平氏は壇ノ浦の戦いに敗れ、その栄耀栄華諸共、夢幻の如く消え失せたのである。

 その後、女院は29歳で出家。大原山の奥、寂光院に入り58歳で入滅する日まで、非業の最期を遂げた一門の菩提を弔う日々を送ることになる。『平家物語』冒頭の語りだしに「おごれるもの久しからず、たゞ春の夜の夢のごとし」とあるが、寂光院周辺の情景に、池の中島の松にかゝれる藤なみの、うら紫にさける色という藤の描写が、なぜか妙に心に残るのである。