イエスは息を吹きかけ

     ヨハネによる福音書 第20章19~23節

 

                         加  藤  高  穂

 

一週の初めの日の夕方

 「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めていた」(ヨハネ20:19a)。

マグダラのマリヤが復活の主イエスにお会いした日曜日の夕方、弟子たちはエルサレムにある一軒の家に集まっていた。その家は、ほんの数日前、イエス様と最後の晩餐を共にしたマルコの母・マリヤの家だったろう。弟子たちといっても銀貨三十枚でイエス様を裏切ったイスカリオテのユダの姿はない。デドモと呼ばれたトマスもその場に居なかった。

 彼らは、この日、マグダラのマリヤから、復活の主イエス様にお会いしたと、喜ばしい知らせを受けていたものの、死人が甦るなど、前代未聞の出来事を、誰も真に受け、信じることはできなかった。

まして況や、百戦錬磨のローマ百卒長の指揮下に行われた極刑中の極刑、最も残酷な十字架刑によって、イエス様は殺されたのである。それだけでない。墓に葬られ、三日も経っていたのだ。遺体は死臭を放っていたろう。マグダラのマリヤの言葉を、誰一人、信じられなかったとしても無理はない。

 それよりも弟子たちは、ユダヤ当局が余勢を駆って、イエス様の残党を根絶やしにすべく、今にもこの家を強襲するのではないかと、真っ暗な部屋の中、灯りも

点けず、不安と恐怖に怯え、身を寄せ合っていた。コトッという小さな物音ひとつにも、心臓が縮みあがり、鼓動が激しくなる。無駄とは知りつつ、戸を堅く閉ざし、息を潜めて隠れていたのである。

 その時だった。パーッと辺り一面に光が射したとみるや、十字架に死んだはずのイエス様が、彼らの目の前に姿を現わされたのだ。予期せぬ出来事に弟子たちは、呆然自失の体で目を見開き、イエス様を見詰めていた。するとイエス様は、彼らの恐れや驚きを拭いさるように、親しく声を掛けられたのである。

 

平安あれ(シャーローム)

 「イエスは入って来て、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。そう言って、手と脇とを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす』」(ヨハネ20:19b-21)。

 「安かれ」とは、ヘブル語でシャーロームという。ユダヤの人々にとっては、日常の挨拶言葉である。だが、この言葉が矢継ぎ早に繰り返されているのを思えば、単なる挨拶言葉だとは言い切れまい。生きた言葉として、大事な意味が籠められているのだ。

 弟子たちは、厳しく執拗なユダヤ当局が、主イエスの仲間である自分たちを、むざむざ生かしておくはずはない。自分たちにも迫害の手を伸ばしてくるだろうと脅えていた。それだけでない。イエス様とお会いするのも心苦しく、空恐ろしかったのである。

彼らは、最後の晩餐の席で「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と口をそろえて大見得を切った。その舌の根も乾かぬ内に、イエス様を見捨てて逃げたのである。裏切ったのだ。自負心は消え、恥ずかしさと不甲斐なさに、身の置き所もない。今となっては、不面目と負い目を感ずるばかりで、合わせる顔がないのである。

 そんな弟子たちの真ん中に、イエス様は立ち給う。そして「シャーローム」(平安、汝らにあれ!)と語りかけ、彼らの心の閊えを取り払い、両手に残る十字架の傷、とどめを刺すべく槍を突き立てられた脇の傷痕を見せられたのだ。

 イエス様は、弟子たちの真意がそこにあらずとも、死の恐怖から自分を見捨て、裏切ったのを御存じだった。背いた者の心の痛みも、苦しみも分かっている。大丈夫だ。心配するな。人が人として生きる、その弱さを全てひっかぶり、その罪を担って、父なる神から託された弟子たちを救いに渡すため、十字架に死んだのだ。そして死の力を突き破り、復活したのである。

 すると、どうか。弟子たちは、今、現に、生き給うイエス様を、直々に拝しただけでない。平安、汝らにあれ!というお言葉と同時に、イエス様の愛が電流のように全身を貫き流れたのである。今の今まで自分たちの心を領し、大きく膨らんでいた死の恐怖が、雲散霧消してしまったのだ。

不思議な感覚である。空中に浮かび上がったシャボン玉が、たちまち壊れて消えたかのようであった。そればかりでない。足下からぐんぐん湧き上がる生命と力、噴き上がる喜びに叫び出したい。躍り上がりたい歓喜に満たされたのである。

 イエス様は、そんな弟子たちに向かって、唯、救いの境地に留まることを、決して求めては居られない。喜びと共に「父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と大きな使命を授け給うたのである。

私どもが天来の喜びに与かり救われるのは、その喜びと共に福音宣教という主の御業を受け継ぐ者として新たな生涯を授かることでもあるのだ。それも、天地を貫く歓びの中でこそ派遣も起こるのである。

 

聖霊を受けよ

 「そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』」(ヨハネ20:22)。

福音宣教に派遣する弟子たちに、イエス様は息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と仰せられた。この言葉に触れて、真っ先に覚えしめられるのは『創世記』第2章7節「主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」という聖句である。

 陶器師が粘土をこねて器を造るように、神が土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられると、人は生きた者になったという。だが、人間以外の生き物に、神が息を吹き入れられたとは出ていない。そこに、神にあっての人間と、その他の存在との明確な別が見られるのだ。とまれ、神に命の息を吹き込まれて、私どもは生きた者となる。神の命の息を受けてこそ私どもは生き得ると、聖書は明示しているのである。

 この『創世記』の記述をそっくりそのまま、イエス様に息吹きかけられた弟子たちが、生死を突き抜けた世界に生きたことに重ねることはできまい。

しかし、十字架に死んで葬られ、三日目に甦り、今も生き給うイエス様の生命の息を吹きかけられた弟子たちが、天地創造の日さながら、新生の生命に生きる者とされ、福音宣教のため、喜び勇んでこの世に飛び出して行く。その体験に通じる、一貫した生命の滾りを覚えずにおれない。それはイエス様が息を吹きかけ、聖霊を賜うに先立ち「父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と言われた、御言の実現でもあった。

 なればこそ、弟子たちの為すべき事も、イエス様が父なる神に派遣されて、世でなさったことに基づくものとなるのである。

 それでは、父なる神からイエス様が、世に遣わされた目的は、何だったのか。

そのことを端的に明示しているのが「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるため」(ヨハネ3:17)と言えよう。だから次の聖句も、その線に沿って受取るべきものとなる。

 

あなた方が赦す罪

 「あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ20:23)。

 それではとばかりに、この御言を表面的に受け止めると間違ってしまう。イエス様の弟子を自認して、あたかも罪の赦しと裁きの決定権を保持しているかのように錯覚してはならないのである。人を赦し、裁くことは、あくまで神ご自身がなさることであり、私どもの為すべきことではない。

 そこから明らかになるのは、イエス様に呼び出された教会の群れは、神による赦しと裁きを告げ知らせ、福音を宣べ伝えるという、イエス様から託された使命に勇躍して参与することを求められているのである。