「主イエスの復活」

マルコによる福音書 第16章1~11節

 

加 藤 高 穂

 

日曜日の朝早く

「さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『誰が、私たちのために、墓の入口から石を転がしてくれるのでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既に転がしてあった。この石は非常に大きかった」。  マルコ16:1~4

 

 週の初めの日、すなわち日曜日の早朝、女たちは、買いととのえた香料をたずさえ、イエス様が埋葬された墓所への道を急いだ。それというのも、十字架から取り降ろされたイエス様の死体は、安息日が迫っていたため、洗い清める暇はなかった。アリマタヤのヨセフが、精一杯の一時的な処置をして、自分の墓にあわただしく葬るのを見ていたからである。

イエス様の体に残る傷痕(きずあと)、十字架に釘づけにされた手足の傷や、槍を突き立てられた脇腹、さらには(はりつけ)にされる直前、鉄片や骨片が埋め込まれた皮の鞭で打たれて裂けた背中の傷も生々しい。傷口から流れ出た血の痕もそのままだったろう。

 女たちは、痛々しく傷ついたイエス様の体を清め、香料の薫りで死臭を放つ体を覆って差し上げたいとの一心から、まんじりともせず一夜を明かした。そして夜明けと共に、家を飛び出し、墓への道を急いだのである。

 その途中、頭をかすめたのが、墓の入口を閉ざす、大きな車輪状の扉石を、誰が転がしてくれるだろうという心配だった。それすらも、一刻も早くイエス様のそばに行きたいという思いの前に、芥子(けし)(つぶ)のように吹っ飛んでしまっていた。

だが墓所近くまで来て、目を上げて見た途端(とたん)、女たちは思わず「あっ!」と声を上げ、息をのんだ。墓の入口が、ポッカリ開いていたのである。墓あばきにあったのか。女たちは気を取り直すと墓に近づき、相次いで中に入った。

 

墓の中に入ると

 「墓の中に入ると、右手に真白な長い衣を着た若者が坐っているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、『驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である』」。  マルコ16:5~6

 

 墓の中に入るや、女たちは、跳び上がらんばかりに驚いた。一瞬に全身から血の気が引き、その場に卒倒するのを、ようやく踏みこたえたのである。それというのも、女たちの右手に、光り輝く純白の長い衣を着た、天使の姿を拝したからに他ならない。

 天来の光輝に打たれ、生きた心地もなく、呆然と立ち尽くす女たちに、天使は「驚くことはない」と優しく声をかけ、女たちの恐れと驚きを吹き払うと、「あなた方は十字架につけられたナザレ人イエスをさがしているのであろうが、イエスは甦って、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である」と言葉したのだ。

女たちが天使の指さす方を見ると、イエス様の遺体を包んでいた死装束の亜麻布が、きちんとたたんで置かれているのが目に入った。それどころでない。天使は、予期だにしない喜びの知らせを告げたのである。

 

 先にガリラヤへ行かれる

「『今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなた方に言われた通り、そこでお会いできるであろう、と』。 女たちは恐れ慄きながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」。  マルコ16:7~8

 

 女たちの驚きは、大きな車輪状の扉石が、どけられていたという事実をはるかに凌駕(りょうが)していた。愛するイエス様の亡骸(なきがら)を求めて来たのに、遺体の影も形もない。それどころか、誰も動かすことのできぬ厳粛(げんしゅく)な死が、打ち砕かれ、奪われてしまったというのである。主イエスは、生き給う!死から(よみがえ)り、ガリラヤへ先立っておられる。

この驚くべき知らせに、女たちは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、飛び上がって喜ぶかと思いきや、恐れおののき、墓から出て逃げ去った。しかも、天使から託された弟子たちとペテロへの伝言をさえ、亡失してしまった風である。魂消(たまげ)るという言葉があるが、まさに身も心も、魂も消え失せたかのようであった。

『マルコによる福音書』の最も古い『原マルコ』は、女たちが直面した途方もない恐れから逃げ帰り、沈黙を守っていたという記事を最後に終っている。

それからのことは、何も語られていない。それだけに、驚きと恐れが、どんなに大きかったかが、沈黙の向うからひしひしと伝わってくる。だが、それだけで終らなかった。状況も立場も異なるが、旧約の預言者エレミヤに神の言葉が臨んだ時のことを、心新たに覚えしめられる。

 

 燃える火が我が骨の内に

 かつて預言者エレミヤは、神からの言葉をのべまい、語るまい、沈黙していようとした。だが、その心中は、どうだ ったか。

 「もし私が、『主のことは重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない』と言えば、主の言葉が私の心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じ込められているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません」(エレミヤ書20:9)と、胸の内を披歴している。

 活火山の煮えたぎる高熱マグマが、盛り上がり、堅い岩盤を突き破って噴出するように、神の言はエレミヤの心に燃えて抑えられなくなったというのだ。

マグダラのマリヤを始めとする女たちも、同じだったろう。途方もない恐れとおののきから、沈黙を守ろうとしたが、守り通せるものでなかった。燃えたぎるマグマさながら、地表に噴き出す力となったのが、何よりも死という岩盤を突き破って復活され、今も生き給う、イエス様にお会いしたことだった。それが女たちを、新たな生命(いのち)に燃え立たせたのである。

 

イエスは甦って

 「一週の日の朝早く、イエスは

(よみがえ)って、まずマグダラのマリヤにご自身を現わされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられることと、彼女に御自身を現わされたこととを聞いたが、信じなかった」。  マルコ16:9~11

 

 矢内原忠雄は、著書『続余の尊敬する人物』の中で、「内村鑑三」を取り上げ、第一高等学校二年生の秋に内村の門下生になって間もない日の、忘れえぬ出来事を次のように記している。

 「私が入門して間もなく、翌年一月のことでありますが、先生の愛嬢ルツ子さんが永眠しました。私と同年の十九歳でした。その葬儀で先生が感想を述べて、『これはルツ子の葬式ではない。結婚式である。彼女は天国へ嫁入ったのである』と言われましたが、基督教に全く初心であった私は、それまでにかかる言葉を聞いたことがありませんでした。しかし先生が戯言(ざれごと)を言ってられるのでないことは、その厳粛(げんしゅく)極まる悲痛な表情によって疑ふ余地はありません。さらに葬列が雑司ケ谷の墓地につき、(ひつぎ)が穴に下され、先生が一握の土をつかんで手を高くさしあげて、『ルツ子さん万歳!』と叫ばれましたとき、私は雷に撃たれたやうに全身すくんでしまひました。『これはただごとではないぞ。基督教を信ずるといふことは生命(いのち)がけのことだぞ』と私は思ひました。これは今日なほ忘れえない感動であります」。

死の現実に直面するとき、私どもは、救いなき空虚に投げ込まれる。マグダラのマリヤも、ペテロを始めとする十二弟子も同様だった。内村鑑三、矢内原忠雄とても変わらない。だが、十字架に死に、三日目に復活し、今も生きて働き給う、主イエス・キリストにお会いした瞬間から、生死を超えた永遠の生命の息を受けて、日々、新たに生きる者とされるのである。