第3298回 備後国 尾道 辰房屋敷【たつみのぼう】のお話。【小説 宇喜多直家 備前岡山の父】  | 模型公園のブログ

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第3298回 備後国 尾道 辰房屋敷【たつみのぼうやしき】のお話。

 

 

       2024年5月30日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】 宇喜多直家 【備前岡山の父】第51話

 

 

 

 

 

 

 

【前話 第3282回の続きより。】

 

 

 尾道水道の中央のやや南寄りに位置していた備後国 

 

岡島城の東の海域に停泊して、杉原氏の家臣の検めを

 

終えた 貞次と宇喜多 興家達の一行は、

 

 

 

「綱を引いて、石を上げよ。」

 

 

と号令をかけて、海中に沈めた石を引き上げて、潮流に

 

逆らう形で船の進路を東、尾道大橋の方向に向け、

 

艪を漕いだのでした。

 

 

 

 

室町時代には、現在のような鉄の錨【いかり】は殆どなくて、

 

石を切り出して、穴を開けて、綱を通して錨の代わりに沈めて

 

船を停泊させていたのです。

 

こんな事情で、昔の尾道では長江1丁目付近には石屋さんが

 

まとまってお店を出していた由来です。

 

 

 

 

【備後国 岡島城跡、南側は埋め立てられ向島中学校などになっています。】

 

 

 

 

貞次と宇喜多 興家達の船は現在の尾道駅前の南側の

 

海岸を土堂1丁目、2丁目と、そのまま潮流に逆らう

 

ように東に進み、尾道市役所の南前を通過し、久保町

 

の浄土寺の南側の船着き場に向かったのでした。

 

 

 

 

 

現在で言いますと、松本病院の東側の漁港の近く、

 

但し、室町時代の天文の当時は、ここは海でした。

 

当時の海岸線はもっと北側でした。

 

 

 

 

 

【明治初期の浄土寺と海岸線の様子】

 

 

昔は、国道2号線の道路付近から、山陽本線の線路あたり

 

が海岸線であったとされています。

 

 

 

 

【単線の蒸気機関車の頃の尾道の山陽本線 尾崎付近 】

 

 

古い言い伝えによると、山陽本線を通す為に尾道水道を埋め立て

 

たそうです。

 

当初は線路は一本だったそうです。

 

後に、山陽本線が複線、つまり線路が2本になることになり、

 

家などが立ち退きになって、広げられ、さらに国道を造る

 

工事で、さらに立ち退きが行われ、その都度、南側が埋め立て

 

られて現在に至っています。

 

 

 

 

 

 

 貞次と宇喜多興家達が船を接岸したのは、ちょうど、

 

山陽本線の南側の船つき場から東に少し歩いた場所の

 

辰房屋敷【たつみのぼう】と言うお寺の建物だったそうです。

 

 

 

 

ちょうど、政所だった浄土寺の辰の方角の

 

房【ぼう・お寺の建物】でした。

 

 

 

 

古くから伝わる尾道の室町時代の日本刀に備州辰房〇●と銘を入れた

 

御刀があります。

 

これが、苗字なのか、屋号なのか、地名なのかと江戸時代から

 

連綿として不明で、尾道の謎の一つでした。

 

古い所では、江戸時代の享和三年こと、1803年に作られた

 

尾道の学者の勝島 惟恭 先生の「芸備古跡誌」と言う本には、

 

尾道のお寺や、神社や、商家の古文書を全て調査したが、

 

「辰房。」なる文字の由来はわからなかったと文章があります。

 

 

 

 

【室町時代の 尾道の刀 備州辰房国重作 】

 

 

その後、昭和になって、長州の毛利家こと、萩藩の

 

古文書の 萩藩閥閲録遺漏の四巻の二の古文書に

 

辰房屋敷とあって、辰房屋敷とは、お寺の建物の名前で

 

あったと文章が発見されてその後、辰房と書いて、

 

「たつぼう。」とか、「しんぼう。」とか読むのは

 

間違いで、お寺の政所の辰の方角の房と言う意味で、

 

「辰房。」と書いて、「たつみのぼう。」と読むのが

 

正しい読み方と言うのがわかってきました。

 

つまり、室町時代に尾道で辰房屋敷と言う建物があって

 

ここで日本刀の生産が行われていたのですが、言い伝え

 

によると、

 

 

 

 

天正十六年こと、1588年8月に当時の関白太政大臣の

 

豊臣秀吉から全国の寺社に刀狩り令と言う命令が発せられて、

 

当時の尾道の領主であった、毛利家によって辰房屋敷は

 

取り壊され、歴史から姿を消したようです。

 

一向宗の一揆とか、根来の一揆とか、寺社の扇動による

 

住民の反乱に手を焼いていた当時の秀吉によって、お寺で

 

僧侶が武器を造ったり、所持したりすることが禁止されて

 

行ったようです。

 

 

 

 

 

 ところで、貞次と興家達の船は、浄土寺の南側の船着場に

 

接岸すると、もやい綱を投げて、木に括りつけると、辰房屋敷

 

に向かって歩き出したのでした。

 

 

 

【次回に続く。】