第3255回 宇喜多興家の佩刀のお話。【脚本小説 宇喜多直家 備前岡山の父】 | 模型公園のブログ

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第3255回 宇喜多興家の佩刀のお話。

 

 

       2024年5月10日金曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第48話

 

 

 

【備後国 鞆津【とものつ】 広島県福山市鞆町】

 

 

 備前国邑久郡豊原庄の砥石城の城主だった宇喜多直家の父親

 

宇喜多興家は、海上を西へ、西へと逃避行を続け、備後国の

 

鞆津こと、現在の広島県福山市鞆町に落ち延び、河野水軍の

 

所縁の寺、時宗 本願寺に身を寄せたのでした。

 

 

 

 

【 河野水軍ゆかりの寺 時宗 本願寺 広島県福山市鞆町後地 】

 

 

 天文三年こと、1536年7月10日、東隣の備中国の青江

 

から、大規模な水害と、その後の飢饉で故郷を捨て、同じく

 

鞆に落ち延びていた刀工 青江 家次、貞次の兄弟と面会し、

 

宇喜多興家は、備前物の佩刀を後学の為に見せてもらいたいと

 

青江家次と貞次兄弟から懇願されたのでした。

 

 

 

【前話 第3239回の続きより。】

 

 

 宇喜多興家は、数尾の魚を持参してくれた青江兄弟の

 

要望に恥ずかしそうな表情で快諾すると、板壁に立てかけて

 

あった打ち刀を鞘から抜いて、刃を自分の方に持ち替えて

 

家次に手渡したのでした。

 

 

家次は、両手で興家の打ち刀を受け取ると、懐から懐紙を

 

左手に取り、全体の姿を無言で鑑刀を始めたのでした。

 

 

 

 

 長さは、2尺1寸程度、反りは、切っ先に行くほど

 

先反りがついた独特な造り姿、左手の懐紙に刀身を

 

載せて無言で刀身を真剣に見つめたのでした。

 

 

 

 

はばき元から切っ先に向かって刃を上にして、刃の通り

 

を見つめ、その後、手首を返し、差し裏のハバキ元から

 

 

 

 

切っ先に向かって両目を皿のようにして刀身を見つめ、

 

手首を返して、今度は差し表の切っ先から、ハバキ元へ

 

と両目を大きく開けて刀身を見つめたのでした。

 

 

 

 

 

      【宇喜多能家【うきた よしいえ】の肖像画】

 

 

 

何も語たらず真剣な表情で刀身を見つめる家次に

 

宇喜多興家は、

 

「この短い刀は、父の能家【よしいえ】が注文して打たせた品で、

 

備前国邑久郡長船郷の長船勝光殿の領内に、

 

与三左衛門尉祐定【よそうざえもんのじょう すけさだ】と

 

名乗る小鍛冶がおりまして、永正の頃に注文して造らせた品を、

 

それがしに譲ってもらった品でございまする。」

 

「その頃、銭二十貫文【約200万円程度】だった

 

そうでござる。」

 

 

 

 

「父の能家【よしいえ】は戦場【いくさば】では、

 

大薙刀をよく用いておりまして、あまり長い打ち刀

 

は不都合と申して、片手で用いるのに重宝な、柄の短い、

 

二尺程度の打ち刀を好んでおりました。」

 

 

 

 

と語ると、家次は、興家の刀を隣に座っていた、

 

弟の貞次に手渡すと、貞次も、兄の家次と同様にして

 

無言で興家の刀を見つめたのです。

 

 

 

 

 

家次は、

 

「興家様、備中国の我らの造り方と、備前の造り方とでは、

 

寸法と形姿が相違しておりまする。」

 

「備前国の品は、我らの品とは短く、先反りがついて、

 

身幅が広く、柄は短く片手で用いるように造ってありまする。」

 

「我らより、折り返し鍛錬の方法が違うのか、地鉄の動き、

 

刃の中の動きが違っておりまする。」

 

などと、宇喜多興家の佩刀のお話は弾んで行ったのでした。

 

 

 

 

  【 備後国 尾道港の浄土寺の様子 】

 

 

そして、その後、青江家次、貞次の兄弟は、興家に数日後、

 

船で半日程度西にある尾道港まで荷物を運ぶので、興家に

 

警護に加わってほしいと懇願したのです。

 

落ち延びてきて世話になっていた宇喜多興家は断るわけにも

 

いかず、

 

 

「それがしのような者でもよければ。」

 

 

と快諾したのでした。

 

 

 

【次回に続く。】