第3174回 膠済鉄道の復旧進軍のお話。【昭和三年済南事件】
2024年3月31日日曜日の投稿です。
昭和の伝道師【戦中・戦後のパイロットの物語】第2803話
【前話 第3160回の続きより。】
昭和3年こと、1928年5月に支那大陸の青島【チンタオ】
に上陸した熊本歩兵第六師団の司令部は、すぐには済南に
向けて進軍しなかったと言うか、混成第十一旅団の先遣隊を
派遣し、様子を見ていたと言うか、日本の本土からの兵力と
物資の到着を待って、揃えてから動く作戦計画だったようです。
ところで支那大陸こと、戦後で言う中国大陸と言う地域は、
現地に行った人はわかると思いますが、飲み水が乏しいのです。
水はあるのですが、泥水の黄色い水が多く、日本人が飲みますと
腹を壊して動けなくなるのです。
熊本第六師団司令部が作成した補給計画は、鉄道を利用して
隷下の部隊に補給物資を補給しながら済南に進む計画だった
そうです。
青島から済南までの距離は、393キロありまして、わかりやすく
言いますと、東京駅から大阪駅程度距離があるのです。
この鉄道の事を当時は、
☆膠済鉄道と書いて、「こうさいてつどう。」
と、読んでいました。
ちょうど、明治の頃、ドイツ帝国がこの地方を清から
奪って植民地にしまして、ドイツ人が物資を運ぶために
鉄道を建設したと言うか、現地の人を労働者として
線路を敷いていったそうです。
1901年に膠済鉄道は完成したのですが、第一次世界大戦
こと、当時は欧州大戦と読んでいたのですが、大ドイツ帝国が
敗戦し、日本に奪われたのです。
わかりやすくお話すると、東京から新大阪に至る東海道新幹線
の線路と駅を外国に支配され、戦後で言います米軍基地のように
自分の国でも、口出しが出来ないようなそんな感じであったのです。
それで、支那人の人達は、この鉄道の線路を至る所で
破壊したのです。
ここは、中華民国の自分達の土地であるとの考えであった
ようです。
師団単位の兵力の場合、1日に大量の飲料水、食べ物、
弾薬の補給が必要になります。
そのような事情で、当時の熊本第六師団の師団長の
福田彦助 陸軍中将は、鉄道の線路を修復しながら
済南に進むことを命令したのでした。
【第六師団 師団長 福田彦助 陸軍中将 山口県出身 陸士第七期卒】
日本本土から、輸送船で陸軍の兵力や物資が青島に到着する
のですが、中隊ごとの到着で、一度には揃わないわけです。
こうして、第六師団の司令部は、進むのが遅れて行ったのです。
一足先に、破壊された線路を放置して、進軍した、斎藤 瀏
陸軍少将の先遣隊 混成第十一旅団の部隊は、済南近郊に
進出し、斥候部隊を出して済南近郊に布陣したのでした。
済南周辺には、10万人程度の共産革命軍が駐留していたのでした。
通常、日本陸軍では定数は、1個連隊で1500名程度、
2個連隊で旅団を構成しますから、3000名の兵力が基本です。
そうすると、30倍以上の兵力が駐留していることがわかった
のです。
現地では、日本人や欧米人の保護と言いましても、相手が
多すぎて、とてもまともに衝突すると日本陸軍の部隊が
全滅する可能性が強かったのです。
【次回に続く。】