第3168回 好成山善応寺と河野弾正少弼通直のお話。【宇喜多直家備前岡山の父】 | 模型公園のブログ

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第3168回 好成山善応寺と河野弾正少弼通直のお話。

 

 

       2024年3月28日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第42話

 

 

 

 

 

 

 

【前話 第3154回の続きより。】

 

 

  備前国の西の端、児島の林村こと、現在の

 

岡山県倉敷市の水島インターの東の林地区から

 

船で出発した宇喜多 興家と乳母のお春さんと八郎君達

 

の一行は、海賊から身を守るために武装した船に乗り組

 

んで、備後国の鞆【とも】港を目指して西へ、西へと進んで

 

いたのです。

 

 

 

 宇喜多興家達が乗っていた船は、伊予国の大名の

 

河野弾正少弼 通直の水軍の船であったのでした。

 

 

 

 

 室町時代の天文の頃、瀬戸内海で勢力を持っていた、

 

伊予国こと、現在の愛媛県松山市の北部の旧北条市の

 

風早の河野郷の周辺に本拠を構えていた河野氏は、海の

 

戦国大名でありました。

 

 

 

 

東に大月山と呼ばれる大きな山がそびえ、ここの麓の

 

河野郷に河野氏の大きな寺院が昔はあったのだそうです。

 

 

 

 

そして、西側には海が広がり、瀬戸内の海の支配者で

 

あったのです。

 

 

 

 

 善応寺と書いて、「ぜんのうじ。」と読むそうです。

 

 

 

 

 

 ここには、最後の当主の伊予守 通直公の墓地は、

 

備後国竹原こと、広島県竹原市の警察署の東にあるのですが、

 

それ以前の当主の人達の墓地は、ここの善応寺の境内にあります。

 

 

 

 

現在も、周辺に河野と言う地名や、バス停や、

 

 

 

 

河野川とか、河野川歩道橋とか、いろんな所に河野と言う

 

名前が残っています。

 

 

 

ここのお寺の背後に、大月山と言う大きな山があって、

 

室町時代の終わりに、ここの地を追われ、備中国や

 

備後国に落ち延びた、河野一族は、岡山県井原市の大月氏や、

 

岡山県真庭市北房の大月氏や、河野氏や、岡山県矢掛町横谷

 

の青江氏や、広島県竹原市や、広島県尾道市の齋藤氏や、

 

広島県福山市沼隈町千歳草深の地に住む河野氏とか、

 

大月とか、青江とか、齋藤とか、稲葉とか、

 

一柳とかの名字で連綿として子孫が暮らしています。

 

 

 

 

江戸時代の有名な子孫は、徳川家康に命じられ、

 

3代将軍の家光の乳母として力を持った春日局も

 

河野一族で、美濃国の齋藤道三の家老職の齋藤家や、

 

稲葉家も河野一族で、幕末の戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い

 

で活躍した山城 淀藩の稲葉家も、河野家の子孫です。

 

 

  

 

 

当時、河野氏は、河野川の周辺に大きな寺院を建設し、

 

瀬戸内海の村上水軍に姫を嫁がせて、瀬戸内海の水軍を

 

傘下にして好を通じ、船の航行に影響力を発揮していた

 

のです。

 

 

 

 

 

 

現在の愛媛県松山市に湯築城と言う城を造り、

 

伊予国を支配し、遠い奈良時代から続いて伊予国を

 

支配していた戦国大名であったのです。

 

 

 

このような経緯で、宇喜多家のご先祖の宇喜多高秀の

 

父親の南北朝時代の南朝方の武将だった児島高徳に

 

河野家から姫君が嫁いでいて、親戚の関係であった

 

のです。

 

 

 

 

 

 

 

そして、河野家の一族では代々、折敷に三文字紋と呼ばれる家紋を

 

使用することになっていました。

 

 

 

           

             【折敷に三文字紋】

 

 

 河野氏の軍船は、必ず、この折敷に三文字紋を旗にして

 

 掲げて、これを用いていたら、河野氏の船と言う事で

 

 海賊も手出しをしなかったそうです。

 

 

 

 

 現在の岡山県の倉敷市水島の東から、宇喜多興家らが

 

乗った一行の船は、西の備後国 鞆津【とものつ】に

 

進んだのです。

 

 

 

「父上、われらはどちらに向かうのですか。」

 

 

と、八郎君が問うと、父親の宇喜多興家は、疲れ果てた

 

表情で、

 

 

「八郎、お春、すまぬ、きっとお爺様から文が

 

届くに違いない、今少しの辛抱じゃ。」

 

 

と、皆に言って諭すように聞かせたのでした。

 

こうして、船は備後国 鞆の港に近かずいて

 

行ったのです。

 

 

【次回に続く。】