第2868回 備前国吉井住清則の作刀地を見学する。【岡山県岡山市東区瀬戸町鍛冶屋】    | 模型公園のブログ

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第2868回 備前国吉井住清則の作刀地を見学する。

 

       【岡山県岡山市東区瀬戸町鍛冶屋】

 

 

        2023年10月31日火曜日の投稿です。

 

 

 

 

 

 

三毛猫ハート

 

 今日のお話は、鎌倉時代から室町時代まで活躍していた

 

 

 〇 備前国吉井住 〇 則 

 

 

などと銘がある、岡山県岡山市東区の吉井地区に

 

住んでいたという日本刀を作刀していたとされる

 

刀工集団の作刀地を現地踏査したお話です。

 

 

 

 

 吉井川の国道2号線の備前大橋の西詰め交差点の

 

北西から西に位置する吉井地区は、昔からの言い伝えで

 

刀工が住んでいたとされていましたが、詳細は一切

 

不明でした。

 

 

 

     【現在は高い堤防が続いています。】

 

 

 

昔は、一日市渡し【ひといちわたし】と言う船着き場があって

 

現在の備前大橋が出来る以前は船で人や物資を対岸の

 

八日市【ようかいち】に渡していたそうです。

 

 

 

 

いずれも、言い伝えでは、河川敷に毎月の一日や、八日に

 

市場が立っていたので

 

地名を 一日市 とか、 八日市 とか呼ぶようになったそうです。

 

 

 

 

 備前国福岡庄の中心地は、平安時代は、岡山県岡山市

 

東区御休地区の現在の福岡神社の門前周辺がその場所でした。

 

 

 

 

人々は、子供達の水田を造るために、どんどんと湿地帯を

 

干拓し、水田が広がって行きましたが、大雨で吉井川が

 

増水したら水没する低地でした。

 

 

 

 

そういう事情で、住む場所は山の裾の地盤の高い場所に

 

自宅を造って住んでいたようです。

 

現在もその名残があります。

 

 

 

 

 

長い間、現在の岡山県岡山市東区の吉井地区が、それらの

 

刀工達の居住地であるとされてきましたが、具体的な証拠資料が

 

一切ありませんでした。

 

 

 

 

現地も、神社があるのみにて、何も手がかりがありませんでした。

 

平安時代は、備前国福岡庄吉井村と呼ばれていました。

 

建長元年【1249年】の福岡庄吉井村作田内検知目録

 

などが残されています。

 

その作田という場所がどこなのか随分捜しました。

 

 

 

 

鎌倉時代に入ると、吉井村は備前国福岡庄の荘園から

 

割譲され、京都の寺院の 東寺【とうじ】の寺社領に

 

なりました。

 

そのような事情で、刀工も寺社領の中で生活するように

 

なって行ったようです。

 

当時の吉井村の範囲は正確にはわかりませんが、おおよその

 

範囲は特定出来ています。

 

 

 

 

現在の吉井地区の城辻山の北側の谷がその場所と推定しています。

 

 

 

 

現在も、鍛冶屋 と言う地名で、

 

鍛冶屋川と言う名称の小さな川が吉井川に注いでいます。

 

 

 

 

吉井川との合流地点の対岸の東土手は長船です。

 

このような地理的位置で、東に長船、西に吉井

 

の集落がありました。

 

 

 

         【 備前国 内山城跡】

 

 

 

向かって、北側には、室町時代には内山城と言う

 

砦のようなお城があったと言い伝えがあります。

 

 

 

 

 

鍛冶屋川と言う名前の川に沿って、西に進むと、その集落があります。

 

 

 

【岡山県倉敷市の高梁川の旧中州村に残されている青井こと青江の井戸】

 

 

鎌倉時代から室町時代には、集落の法則があって、

 

青江、三原、辰房、国重、法華、鞆 等の作刀地に

 

共通しているのは、井戸を中心として集落が形成されて

 

います。

 

そう言う訳で、一番に古い井戸を捜しました。

 

 

 

 

【旧吉井村 現在の鍛冶屋の集落の風景】

 

【中央の山が 城辻山 】

 

 

ここの谷間のせせらぎの周辺に理由は現在調査中

 

ですが、景則 とか、為則とか銘を切る刀工が、

 

いて、その時期は、元寇の頃の、鎌倉時代の

 

弘安二年【1279年】の作品が確認されています。

 

それで、両者、歌舞伎役者の芸名のように、

 

同じ名前が世襲されていたようで、南北朝時代

 

まで連綿と同じ銘の作品が続いています。

 

 

 

 

南北朝時代の作品を観察すると、例外を除いて

 

北朝の年号が使用されています。

 

備前長船の兼光一派と同様に足利尊氏の北朝の

 

年号を使用して作品が造られています。

 

 

 

 

 

 初期の作品は、例外を除いて、低い刃の中に

 

互の目の刃中の動きがある焼刃土で焼かれた

 

作品が多いいです。

 

 

 

 

鎌倉時代には、

 

〇景則

 

〇為則

 

〇真則

 

〇長則

 

南北朝時代や、室町時代の応永以後には、

 

〇景則

 

〇氏則

 

〇吉則

 

〇清則

 

〇盛則

 

〇則綱

 

〇則満

 

室町時代の正長以後には、

 

〇景則

 

〇清則

 

〇永則

 

〇兼則

 

〇盛則

 

〇盛次

 

などの銘の作品が残されています。

 

 

苗字は、室町時代には藤原と言う苗字を

 

用いた作品もあります。

 

 

 

 

現地を踏査すると、古い井戸なども存在していて、

 

興味深いお話もあったのですが、かなくそと呼ばれる

 

鉄のクズが出土したとか、そういう情報はありません

 

でした。

 

おそらくは、民家の下の地盤の鎌倉から室町期の

 

地層にあるのではないかと推測しています。

 

 

 

 

 

周辺の墓石を調査したのですが、西側の墓地は

 

比較的後代の墓石でした。

 

 

 

 

北側の斜面に室町期の古い様式の墓石がありましたが、

 

文字などは確認できませんでした。

 

 

 

 

現在も調査の途中ですが、備前国住吉井〇〇と銘を切る

 

刀工の居住地は、ほぼ、ここの鍛冶屋と言う場所で

 

間違いがないのではと推測しています。

 

問題は、どういう事情で鎌倉時代に、この地で作刀が

 

始まり、そして室町時代に消滅したのかと言うことを

 

証拠を捜して証明する必要があります。

 

ちょうど、この地方、室町時代の寛正の頃、大規模な水害

 

の後に飢饉が発生し、大勢亡くなったと言う記録が残って

 

います。

 

もしかしたら、そうだったのかもしれませんが、今、少しずつ

 

調べています。

 

 

【次回に続く。】