第2602回 霞ケ浦海軍航空隊司令官 安藤昌喬 海軍少将のお話。
2023年6月25日 日曜日の投稿です。
昭和の伝道師【戦中・戦後のパイロットの物語】第2761話
【前話 第2588回の続きより。】
昭和2年こと、1927年11月1日月曜日付で、駆逐艦 秋風から
現在の茨城県土浦市阿見町 当時の呼び名で、稲敷郡阿見村にあった
霞ケ浦海軍航空隊に転勤になり、到着初日に墜落事故が発生し、
【安東昌喬 海軍少将 北海道出身 海兵第28期卒 当時47才】
その翌日の朝、私は初めて霞ケ浦航空隊の司令官 安藤 昌喬【まさたか】
海軍少将のお顔を遠くから見ることになって行ったのでした。
安藤 昌喬 と書いて、「あんどう まさたか。」と読むそうです。
記憶が残っていますのが、航空隊の司令部前には、旗を掲揚する
電信柱より長い支柱が2本立っていまして、1本目には、軍艦旗
そして、その後ろの2本目の支柱には、
〇 海軍少将旗【かいぐんしょうしょうき】
が掲揚されていました。
海軍少将旗と言うのは、将軍になったら、旗を別に掲揚できる
将官の当時の特権で、軍艦旗とよく似ているのですが、赤い
一文字線が上と下の縁に入っているのが特徴でした。
別に、海軍中将旗と言うのもあって、横一文字が一本少なくなると
海軍中将旗となります。
私が霞ケ浦海軍航空隊に転勤した当時の司令官の安藤昌喬 海軍少将
は、北海道の札幌中学こと、戦後の現在の札幌南高校の出身で、
優秀な人でありました。
何しろ、札幌中学は、北海道で一番初めの公立学校で、勉強が
出来る人が通う、北海道で一番の中学校【戦後の高等学校】でした。
海軍兵学校 第28期卒、海軍大学校 甲種 第9期首席卒、
つまり海軍大学をトップで卒業した海軍のエリートでした。
そして、日本海海戦に出陣され、戦艦 常盤【ときわ】の
分隊長として戦ったという実戦経験がある人物でした。
第一次世界大戦では、中東に派遣された艦隊の参謀として出陣、
戦艦 霧島の艦長などを歴任し、第二艦隊の司令部の参謀長を
経て、大正時代の最後に霞ケ浦航空隊司令官に着任したという
人でした。
【 霞ケ浦航空隊 副長 山本五十六 海軍大佐】
私はお会いしたことはなかったのですが、私が転勤してくる前年、
つまり大正時代の最後の年には、後の連合艦隊司令長官
となる 山本五十六海軍大佐が、副長 兼 教頭として
この霞ケ浦航空隊で勤務されていたそうです。
当時、私が聞いたのは、安藤 昌喬 海軍少将は、業務を
ほとんど、山本 五十六 副長に丸投げして、任せてしまい、
海軍少将の身の上で、部下の飛行教官に弟子入りしまして、
航空機の操縦を習いまして、
「海軍では旗艦が先頭を航行する習わしが伝統である。」
などと申され、自ら飛行訓練生達と一緒に飛行編隊を組んで、
先頭を飛行していたという人でありました。
昭和2年の当時は、前年に山本五十六 副長 兼 教頭は転勤され、
航空機の操縦を覚えて、司令官自ら編隊を率いて、
「前方 筑波山。」
「方位 よろしい。」
「よーそろーう。」
「全機、我に続け。」
と、合図を出して、空を飛んでいた、海軍少将でありました。
【次回に続く。】