第2016回 片山一文字の作刀場所を見学する。【岡山県総社市山手町地頭片山】 | 模型公園のブログ

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第2016回 片山一文字の作刀場所を見学する。【岡山県総社市】

 

 

 

          2022年10月16日 日曜日の投稿です。

 

 

 

               三毛猫犬ラブラブ

 

 

 

 

三毛猫犬ルンルン

 

 今日のお話は、遠い昔の鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、

 

日本刀の美しい刃紋を焼いていた、片山一文字派と呼ばれる刀工群の

 

住んでいた場所を見学したお話しです。

 

 

 

 

 

 江戸時代の地図は、絵図だったのですが、元号が明治時代に

 

変わって、西洋式の測量が行われ、岡山県の地図が作られて、

 

明治の古い地図が上の地図です。

 

測量は、日本陸軍の参謀本部によって行われました。

 

 

日本刀の業界で、大正時代からいろんな申立をする人達が

 

いて、

 

ゲッソリ!!「片山一文字派の作刀場所は、備前長船から東に30分

 

ほど進んだ、片山町で作られていたらしい。」

 

とか、

 

 

 

上の写真の、現在の岡山県備前市西片上町周辺を、明治時代には

 

片山町と言う地名があって、そう言うお話しが業界に流れたことが

 

あって、今もそのお話しが続いています。ゲッソリピリピリ

 

 

 

デレデレ!!

 

 昭和58年頃から、当時の財団法人 日本美術刀剣保存協会の岡山県支部

 

の会長であった、故 小林種次さんが、片山一文字派の作刀地は、長船から

 

南に4キロ程度離れた、上笠加と言う場所であるとの文章を発表され、

 

そのお話しが今現在も続いています。

 

三毛猫犬!!

 

これらのお話しの根拠は、片山と言う地名があるので、とか、あったので

 

とか、そんな文章で、具体的証拠などが一切無いのです。

 

それで、長い間、本当かと考えて、文章を精査したり、現地を歩いたり

 

したのですが、世間が納得するような証拠が一切無く、学問上、間違いと

 

今現在は否定せざるをえない状態です。

 

これらの説を採用すると、青江刀工の刃紋の作風の変化が説明出来なく

 

なることも理由のひとつです。ゲッソリデレデレアセアセ

 

 

 

三毛猫犬ハート

 

 本日紹介する片山一文字の作刀場所は大昔から言い伝えがある

 

場所で、片山一文字派の刀工は、青江刀工の薙刀鍛冶であったと言う

 

お話しに基づいて紹介して行きます。

 

上の地図の中央に旧山陽道の国道があって、古の昔は海岸沿いに道路が

 

現在のように整備されておらず、内陸の比較的山の無い、川沿いの道を

 

通っていたようです。

 

 

 

 

 旧山陽道の道筋に現在の髙梁川こと、当時の大川の東に、山陽道の

 

駅があったそうです。

 

駅と言うのは、鉄道の駅ではなく、朝廷が整備した、馬の乗り継ぎ場所

 

であったそうです。

 

 

 

 

 

その場所は、山手村と言う場所にありました。

 

平安時代の後期に源平の合戦で手柄を立てた、関東地方の児玉党の

 

1人であった、荘氏【しょう】と言う武士が、この山手村付近の

 

地頭職に任じられ、ここからこの地方の御家人の荘氏の歴史が

 

スタートしたそうです。

 

当初は、 荘 と言う文字を用い、後に、室町時代に入ると、

 

庄 と言う文字に変化して行きました。

 

 

 

 

 

 現在の幅の広い道路の南側に狭い昔の道路があって、ここが昔の

 

山陽道の道と現地では言い伝えがあります。

 

 

 

【画像中央の山の上が備中国福山城跡、右の山が高山城跡】

 

 

 

 当時の備中国の国府は、上の写真の中央右の丘の北の向こう側に

 

あって、現在の岡山県総社市のこの周辺は、米が採れるよい地域

 

だったそうです。

 

 

 

 当時の この地域の支配者 地頭であった 荘氏は、山陽道沿いの

 

 南側に館を構えていたと地元に言い伝えがあります。

 

 

 

 現在も神社がある場所の周囲がその昔の館のあった場所ではと

 

言い伝えがあります。

 

 ここの館の南側に、山手村 地頭片山 と言う地域が、日本刀の

 

片山一文字派の作刀地と言う言い伝えが大昔からあります。三毛猫犬ハート

 

 

 

 

上の写真の白い煙が上がっている場所が、片山です。

 

背後、画面中央左の山が、備中国福山城跡、

 

背後、画面中央右の山が、備中国高山城跡、

 

 

 

 

この地域の古い文章を精査すると、備中国福山城跡は、

 

実は、福山寺と言うお寺であったそうです。

 

 

 

備中国高山城跡は、室町時代のお城で、

 

高山城 と書いて、「 こうざんじょう。」と読み、

 

幸山城とも書くとありますが、室町時代の刀工の作品で、

 

茎【なかご、刀の銘がある場所】に、高山城於 などと、

 

文字がある作品が残されていて、室町時代には、

 

「高山城。」 と言う文字で書かれていたようです。

 

 

ここのお城の城主は、石川氏と言う戦国小名で、そのお話は

 

またにして、水害が多発していた、備中国青江の地域は、

 

 

 

 

 ちょうど上の地図の中央の川が二股に分かれていた地域で、

 

 青江刀工の1部が、山手村に水害を避けて、移住したと

 

 されています。

 

 

 

 

移住したのが、 上の領主の荘氏の館の南側、片山の地であった

 

とされています。

 

ちょうど、白い煙が上っている場所になります。

 

 

 

 

 

 【 南側、地頭片山方向を撮影する。】

 

 

 

 

   【 山手村から北方向、総社市中心部方向を撮影する。】

 

 

 現在の風景ですが、大昔の鎌倉時代は一面水田の風景が地平線まで

 

続いていた様です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刃の低い地味な作風の青江刀工の大薙刀の作品が、南北朝時代の初期に、

 

福岡一文字風に変化し、華やかな美術的価値の高い作品がどんどん

 

作刀されていくように変化して行きました。

 

 

 

 

 

これらの作品の内、現在の研究で片山一文字と分類される作品の

 

大半が、薙刀、又は、後代に、摺り上げられ、横手を切った

 

薙刀直しの刀や、脇差しに直された無銘の品が例外を除いて

 

大部分を占めています。

 

それは、この地方を統治していた、荘氏の注文によると推測

 

されています。

 

則房、真利などの作品が、片山一文字と呼ばれて分類され、

 

在銘品がほとんど無いのですが、 真利の作品の初期は、

 

青江刀工の作品で、長船でなく、青江で作刀されていたと

 

されています。

 

 

 

青江の地、現在の中洲、酒津、祐安の地域は、上の写真の山の向こう側の

 

南側、約6キロ程度向こうです。

 

洪水を避けて、山陽道沿いの片山に移住し、ここで何某かの出来事があって

 

華やかな刃紋を焼く大薙刀を作る刀工として活動していたようです。

 

青江刀工の作風が変化して行った理由は、備前国吉岡庄や、備前国福岡庄

 

に修行に行ったとか、いろんな説が唱えられていますが、どれも

 

推測の説で、はっきりした事はわかっていませんが、作風が、つまり、

 

細直刃から、華やかな丁字へ、 そして、青江の逆丁字へと、

 

変化して行ったのは、残された作品から誰もが認める事実です。

 

この片山一文字派は、南北朝時代の初期に消滅します。

 

 

 

 

 

建武三年五月に備後國尾道港で、備後國太田庄の支配者の浄土寺

 

と和議を結んで、その後、陸路は、足利直義の軍勢、海路から、

 

足利尊氏の軍船の船団が東に進撃し、ここの場所で大きな合戦が

 

発生したそうです。

 

 

 

 

 

その時期は、建武三年の五月中旬とされています。

 

その戦いを 備中国福山城の合戦と言い伝えられ、福山城は

 

焼け落ちて、周囲は焼け野原になったと言い伝えがあります。

 

建武三年頃、武力衝突によって、当該地域が焼け野原となり、

 

周辺を統治し、注文を出していた、御家人の荘氏が一時期

 

北朝方の足利勢の西からの侵攻で四散、逃亡し、それが理由で

 

作刀が止まったようです。

 

 

 

 

 

【 現在の 言い伝えがある 片山一文字派の作刀地 地頭片山の風景 】

 

 

 

 

 

      【白い煙の場所が 地頭片山 】

 

 

三毛猫犬アセアセ

 

遠い、南北朝時代、現在の岡山県総社市の山手町の周辺で

 

大きな軍事衝突があり、備中福山城は焼け落ち、周囲も火攻めに

 

さらされたと言い伝えがあり、周辺の風景を見つめて、遠い昔

 

の火災で煙があがっていた当時の様子を想像して物思いにふけりました。

 

 

三毛猫犬!!

 

 もう少し年月をかけて、周辺の工事現場などからの出土品などや、

 

いろんな御刀の作品を調査して研究を進める必要がありそうです。

 

現在、片山一文字派の刀工が、隣の国の備前国福岡庄か吉岡庄の

 

刀工への弟子入り説が昭和の戦後から業界の研究者達によって

 

唱えられ定説になりつつありますが、本当のことはわかっていない

 

のが現状です。

 

 

    

 

 

理由は、ほとんどの作品が大薙刀で、作品が摺り上げられ、結果

 

無銘がほとんどで、在銘品が少ないのがその理由で、銘の研究が

 

難しいのが原因と考えています。

 

多くの研究者が刀身の出来のみを見て、推測説を唱えているのが

 

現在の状況です。

 

 

 

岡山県総社市の文章や、寺院の古文書などを調査すると、どう言うわけか、

 

南北朝時代の文章は残っていないのです。

 

みな、室町時代以後となっています。

 

 そういう調査結果で、新しい発見が出るのを待つか、作品からたどって

 

調査するか、その他の方法があると思いますが、ここの地方の南北朝時代の

 

争乱は、相当に酷く、寺院や、お城や、館が焼き払われたようです。

 

 

 

         【 旧中洲村の 青江の井戸 】

 

 

 

 

          【 祐安の青江の井戸】

 

 

ここの地頭片山の周辺で青江の井戸の言い伝えがないかとか、捜しては

 

みたのですが、数年経ちますが情報は皆無です。

 

 南北朝時代の当時、住んでいた人達は、殺されたのか、どこかに

 

逃げたのか、今現在調べていますが、よくわかっていません。

 

 

    

 

 

     三毛猫  じゃあ みんな また 明日ね。ハートラブラブ

 

 

 

【次回に続く。】【転載コピー自由です。】