第1978回 備前国 明善寺合戦の古戦場跡を見学する。【岡山県岡山市中区沢田】 | 模型公園のブログ

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第1978回 備前国 明善寺合戦の古戦場跡を見学する。

 

 

 

           2022年10月3日 月曜日の投稿です。

 

 

            三毛猫犬ラブラブ 

 

 

 

 

三毛猫ハート

 

 今日のお話は、昔昔の室町時代、織田信長が桶狭間の合戦で

 

今川義元を討ち取った年から7年後に発生したと言い伝えがある

 

明善寺合戦の古戦場を見学したお話しです。

 

犬?

 

◎明善寺合戦と書いて、「みょうぜんじかっせん。」と読みます。

 

 

 

 

 

 

    【備前国 明善寺山城跡 岡山県岡山市中区沢田】

 

 

 

三毛猫?

 

◎明善寺合戦の名前の由来は、

 

 

上の写真の山の南側に、明善寺城と言う山城があって、そこの

 

北側周辺で発生した合戦ということで、お城の名前をとって、

 

明善寺合戦と呼んでいるようです。

 

 

 

三毛猫アセアセ

 

◎ 備前国に侵入を開始した 備中国の太守 三村家親。

 

 

 永禄九年【1566年】備前国 亀山城城主 宇喜多直家は、

 

現在の岡山県中区沢田、原尾島周辺を見渡す、明善寺山に

 

お城を築いて、西の防衛拠点としていました。

 

西隣の備中国を統一し、東に侵略してきていた、三村家親の軍勢に

 

備える為でした。

 

三村家親の巨大な軍事力に対して、備前国西部の

 

◎石山城主 金光宗高

 

◎中島城主 中島元行

 

◎舟山城主 須々木 豊前守

 

などが、三村家親の傘下となり、現在の旭川の西と東で

 

緊張関係が続いていたそうです。

 

 

 

犬!!

 

◎ 備中国の太守 三村家親の暗殺の由来について。

 

 

 脅威を感じていた、宇喜多直家は、讃岐国の遠藤秀清・俊通兄弟を

 

雇い、火縄銃で、興善寺と言うお寺で三村家親本人を狙撃して殺害し、

 

三村家と宇喜多家の対立は、最高潮に達したのです。

 

 

 

 

ムキー!!

 

◎明善寺合戦の前哨戦について。

 

 

 当主を暗殺された三村家は、若干21才の子息の三村元親を総大将

 

として、備前国に仇討ちと称して侵攻を開始して、宇喜多の出城の

 

明善寺山城を攻めて、占領したのです。

 

 

 

 

永禄10年7月、宇喜多直家は、備前国東部の兵力を動員して、

 

備前国 明善寺城を包囲し、合戦が始まっていったとされています。

 

ここまでが、前話の明善寺城を見学したお話しで紹介した部分です。

 

 

 

  

  【 備前国 亀山城 城主 宇喜多直家 岡山県岡山市東区浮田】

 

 

 

 

注目すべきは、相手の軍勢が4倍の大兵力で、劣勢でも、

 

籠城せずに、旭川の東に宇喜多勢が打って出たことに

 

あります。

 

小さな亀山城に籠城しても、包囲されて、兵糧攻めにされたら

 

終わりと悟っていたようです。

 

それ故、旭川の川土手で、渡河してくる相手を叩こうと西に

 

軍勢を進めたようです。

 

 

 

 

 

 

 ◎ 備前国辛川表の軍議。

 

 

 備前国辛川【からかわ】とは、現在の岡山市北区備前一宮の北側の

 

地域で、ここに備中国の城主が、三村元親の仇討ちの助太刀と称して、

 

続々と到着しました。

 

 

 

 

 

◎備中国 高山城 城主 石川久智らの軍勢、5,000名

 

高山城は、現在の岡山県総社市周辺の軍勢。

 

 

 

◎備中国 植木城 城主 植木秀長らの軍勢、7,000名

 

岡山県真庭市周辺の地域の軍勢。

 

 

◎備中国松山城 城主 三村元親らの軍勢、8,000名

 

岡山県高梁市、成羽、美星周辺の地域の軍勢。

 

約2万名の兵力が 備前国辛川表に集結したそうです。 

 

 

 

 

 三村元親は、軍勢を3段に別けて、

 

 

 先陣は、備前国の西部 岡山城 城主 金光宗高の軍勢で、

 

続いて、備中国の西部の城主 荘 元祐【元親の兄】の軍勢、続いて、

 

植木秀長の軍勢、合計7,000名で、現在の岡山市の中心部

 

から旭川を渡河して、岡山市中区原尾島へ進撃し、宇喜多勢と

 

合戦に及んだと伝えられています。

 

 

 

 

 

  上の画像の右手が岡山市中区原尾島で、左手が沢田です。

 

ちょうど、画面中央山すそ付近が両軍が激突した場所ではと推測します。 

 

 

 

 

 

2つ目の軍勢は、先陣は、中島城主 中島元行の軍勢で、その後に、

 

備中国 高山城城主 石川久智らの軍勢、兵力5,000名程度が、

 

原尾島へ押しよせたとあります。

 

 

 

 

 

 おそらく、室町時代の地形は、現在と違っていると思いますが、

 

おおよそ、周辺の山なみなどは、現在とほぼ同じではと推測して

 

います。

 

 宇喜多 直家の軍勢は、左手からと、右手からの軍勢を

 

迎え撃ち、原尾島周辺で大きな合戦となって行ったようです。

 

 

 

 

 3番目の部隊の三村元親の軍勢、約8千人は、山陽本線

 

高島駅周辺を通過し、東に進み、宇喜多 直家の本拠地の

 

備前亀山城方面に進撃したそうです。

 

 

 

 

 

 

 三村元親の軍勢が古都周辺まで進撃していた当時、

 

明禅寺山城の三村勢守備隊が全滅し、南の荘勢、植木勢が

 

総崩れとなり、退却を開始し、これを見た、石川勢も、

 

退却を開始し、旭川を渡りだしたそうです。

 

 

 

 

 

 それで、三村勢も退却する途中に、宇喜多勢の攻撃を受けて

 

多数の戦死者を出し、負傷者を残して、川を渡って撤退した

 

と言い伝えがあります。

 

 

 

 

 

三毛猫アセアセ

 

 本当の出来事は記録に文章で残っておらず、研究している人のお話では、

 

もう少し別の動きだったのではとか、いろんな説が唱えられています。

 

この合戦で,備中国のそれぞれの地域の城主は、この明善寺合戦で

 

多くの配下の武士が戦死し、戦力が下がって、衰退の原因になった

 

と言い伝えが残っています。

 

 

 

 

 敗戦の原因は、配下の武将の裏切りであったとか、1つの兵力を

 

3つに分散してしまい、個別に撃破されたとか、宇喜多勢が、

 

火縄銃を多数装備していて、これを上手に活用したとか、いろんな

 

説がありますが、どれも証拠の乏しい推測のお話しです。

 

今日紹介したお話も、もしかしたら実際の出来事とは違うかも

 

知れません。

 

 

 

  

  百間川の堤防から、西側を見つめて、いずれにしても、

 

1567年頃、 ここの地域で、約2万人の備中勢を宇喜多勢が

 

5千名程度で打ち破り、明善寺合戦に勝利したことは間違いない

 

事実のようです。

 

 

 

 

三毛猫犬ルンルン

 

 みなさんも、機会があったら、岡山県岡山市中区沢田の明善寺山城跡

 

を訪問して、室町時代の様子を現地に立って想像して楽しんでいただけ

 

たらと思います。

 

 

 

 

三毛猫犬!!

 

 それから、戦前の昔は兵棋【へいぎ】と呼んでいたのですが、

 

お話しや文章だけては、よくわからない部分もあります。

 

昔の言い伝えに出て来る地名が今現在のどこのあたりなのかを

 

調べて、場所を特定して、 ユニットと言う、色違いのマークを

 

地図に置いて、昔の合戦を再現して、勉強するのも楽しみの

 

1つです。

 

こんな楽しみ方をしているのは、僕ぐらいだと思いますが、

 

よかったら、わかりやすいので、模倣して楽しんでいただけたら

 

と思います。三毛猫犬ラブラブ

 

 

 

 

 

 

        三毛猫 じゃあ みんな また 明日ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】【転載コピー自由です。】