第1888回 備前長船畠田派の作刀地を見学する。【岡山県備前市畠田】 | 模型公園のブログ

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第1888回 備前長船畠田派の作刀地を見学する。【岡山県備前市畠田】

 

 

 

              2022年9月3日土曜日の投稿です。

 

 

              三毛猫犬ラブラブ

 

 

 

 

三毛猫ハート

 

 今日のお話は、遠い鎌倉時代の大昔に、備前長船鍛冶の祖先が

 

日本刀を作刀していたのではないかと思われる、岡山県備前市畠田の

 

地を現地を歩いて見学したお話しです。

 

 

 

 

 

備前長船の兼光屋敷から東に500メートル程度行くと、瀬戸内市から

 

備前市になり、畠田の地は、隣の町内と言う感じの場所です。三毛猫犬ルンルン

 

 

 

三毛猫?

 

旧長船町の古文書には、現在の香登駅【かがと えき】の周囲が、

 

昔、大化の改新頃、朝鮮半島の百済国【くだらこく】の鍛冶職人の

 

一族、50世帯が移り住み、靫負郷【ゆげいごう】と名前をつけて、

 

朝廷の直轄地とされ、毎年、年貢として、弓矢の矢じりを納めていた

 

のではないかと推測する文章が残っていて、僕は、備前長船刀鍛冶の

 

原点ではないかと推測しています。

 

つまり、長船刀工の祖先や、備前焼の陶工の祖先は、朝鮮半島の

 

百済【くだら】国からの移住者だったと考えています。

 

 

 

 

三毛猫!!

 

今現在の地形と、鎌倉時代の当時の地形は違っていて、

 

今現在の地名が畠田とあるので、ここですと言うのは、

 

過去の調査から、大きな間違いの基で、よく調べて

 

見る必要がありますが、おおよそ、現在の吉井川の

 

東側、長船の近くにあったことは作品の銘からわかります。

 

それから、僕が、元祖長船ではないかと疑う理由として、

 

古備前と分類されている、二字在銘の時代にあって、

 

やや時代が下がる作品ですが、地名を銘に入れた作品が

 

残されています。

 

 

 

それから、備前長船鍛冶の事実上の祖先とされている光忠との

 

合作の銘の作品が残されています。

 

これらの残されている作品から、畠田守家の家と光忠の家は親しい

 

関係で、両者協力していたことがわかります。

 

そのような訳で、時代は、長光の時代それ以前、畠田の地で

 

守家らの畠田派の刀工が現在の長船の東、約500メートル程度

 

の場所で作刀していて、徐々に、川の河川敷の近くに便利さを

 

求めて南西に鍛冶職人の家が動いていったのではと推測しています。

 

つまり、後の長船の刀工の出所は、畠田派の作刀地であった可能性が

 

非常に高いと推測しています。

 

 

 

 

推測ですが、朝鮮半島の百済人の矢じり工房こと、靫負郷【ゆげいごう】

 

の約50世帯の集落がどこにあったのかは、正確な位置はわかっていません。

 

それから、平安時代から鎌倉時代の初期にかけての、古備前の時代や、

 

古一文字派の時代についても、作刀地がわかっていません。

 

鎌倉時代中期の光忠の時代から、長船周辺であろうとこうなって

 

いるのが現在の業界の見方です。

 

ここに一石を投じる残された作品の銘を紹介すると、

 

 

 

重要文化財 【名物 兵庫守家】

 

備前国長船住守家

 

 

 

と言う作品が名古屋市の徳川美術館に残されています。

 

徳川家康から、御三家の1つ、尾張徳川家伝来で、

 

年期はありませんが、文化庁から、光忠と同じ時代の

 

鎌倉時代の作品と鑑定されています。

 

 

 

 

 

畠田の東側、鶴山付近から長船方向に歩いて見ました。

 

守家や、真守と言う畠田派の刀工が知られていますが、もしかしたら

 

光忠は分家筋で、本家は畠田ではなかったのか、そんな想像もして

 

います。

 

蛙子丁字刃【かわずこちょうじ】の考案も、元祖は畠田ではなかった

 

のかと、いろんな作品を観刀して見て感じています。

 

 

 

 

朝鮮半島の百済人の矢じり職人の村 靫負郷【ゆげいごう】が

 

母体となって、鍛冶職人の町の基礎が出来、数百年の後の鎌倉時代

 

から、現在の備前市香登駅の周囲で、直刃の刀剣から、蛙子丁字刃

 

の作品が出来る様に変化して行った。

 

 

 

 

ここ、畠田の地から,南西の川沿いの長船に、光忠、長光などの

 

刀工が家を構え、作刀していた。

 

船に乗って、備前国吉岡荘に職人が移動し、ここが福岡一文字派や、

 

後の吉岡一文字派の刀剣の作刀地となって行った。

 

つまり、畠田周辺は、その原点のような場所ではなかったのか

 

と考える様になっていきました。

 

 

 

 今まで数千の作品を見つめて、思うに、直刃の刀剣から、

 

丁字の刃紋が発生し、確立したのは、鎌倉時代と思われ、

 

その後、作者によって、刃が高くなったり、低くなったり

 

はしますが、畠田派の作品を見つめると、その原点であるように

 

思います。

 

 

 

 

 

今現在の畠田のどこの場所が刀工の工房であったのか探るには、

 

古い井戸の跡などや、遺跡の発掘記録などを捜していますが、

 

はっきりとわかっていないのですが、おおよそ、現在の川沿い

 

ではなかったのかと、推測しています。

 

 

 

 

おそらく、鎌倉時代の吉井川の河川敷は、現在の場所より、

 

数百メートル程度か、東側を流れていたと推測しています。

 

そこの河川敷から、水害の増水で流されない、少し高い場所で、

 

井戸などの生活用水の確保が容易な場所であったに違いないと

 

考えています。

 

 みなさんも、よかったら、時間のある時に、歩いて

 

鎌倉時代の頃の畠田の様子を想像して見てください。

 

 

 

 

本日は、日本刀の備前長船の元祖ではと推測している、備前国畠田守家

 

や真守などの刀工の住んでいた、岡山県備前市畠田の地を歩いて見学した

 

お話しを紹介しました。

 

 

【次回に続く。】【転載コピー自由です。】