第1891回 「愛刀家の心がけについて。」佐藤寒山博士。 | 模型公園のブログ

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第1891回「愛刀家の心がけについて。」佐藤寒山博士。

 

 

                

               2022年9月4日日曜日の投稿です。

 

 

 

 

 

 

 

三毛猫ハート

 

 昭和47年頃、岡山県岡山市に東京国立博物館の刀剣室の

 

室長であった、佐藤 寒山こと 貫一 博士がお来しになり、

 

集まった会場で、こんなお話しをされたそうです。

 

 

 

えーピリピリ

 

 

「 最近の岡山県の日本刀剣保存協会の会員の人達は、

 

自分の買い求めた御刀の自慢話や、他人が買い求めた

 

御刀の批評に終始して、何一つ自分で御刀について

 

研究して勉強しようという姿が見られず、大変

 

残念極まりない。」

 

 

 

えー!!

 

「 岡山県には、古青江、青江、古備前、古一文字

 

雲類、福岡一文字、吉岡一文字など、作刀地などが

 

未解明な刀工群が複数あって、昭和の戦後、何一つ

 

研究が進んでいない。」

 

 

 こんな指摘のお話しが当時あったそうです。

 

今から50年程前のお話しで、僕が直接聞いた訳では

 

ありません。

 

岡山県の有名な愛刀家であった 故 中津 勝己さんの

 

お話しでは、当時の岡山支部のお叱りを受けたメンバーで、

 

 

 

デレデレルンルン「みんな、元気を出して頑張ってみょうじゃなーかぁ。」

 

 

 

と、そんなお話しになり、

 

過去の刀剣の史跡について、研究を始めたそうです。犬オッドアイ猫ラブラブ

 

 

 

デレデレ!!

 

 

当時の、日本刀剣保存協会の岡山支部の支部長であった

 

故 小林 種次さんと言う熱心な愛刀家の方が本まで

 

自費出版したりされ、唱えられていたのは、片山一文字

 

の作刀地は、岡山県総社市地頭片山となっているが、実は

 

誤りで、岡山県邑久郡の下笠加と言う場所であると唱え

 

る論文を発表されたのは、それから10年程過ぎた、

 

昭和58年か、その頃だったそうです。

 

 

故 小林種次さんの文章を読むと、

 

デレデレハート

 

「古一文字派も、福岡一文字派も、吉岡一文字派も、

 

片山一文字派も、正中一文字派のいずれも、作刀地は

 

現在の吉井川の流域に違いない。」 

 

と、こう言うお話しで、現在の吉井川の下流に

 

昔、片山と呼ばれていた地域を発見し、きっと

 

ここに違いない。」デレデレ!!

 

 

 

 

と、こう言うお話しの主な内容でした。

 

但し、平成に入って、後に、小池さんと僕が検討して見たら、

 

残されている片山一文字と分類される作品と、つじつまが

 

合わない部分が出て来たのです。

 

それを少しわかりやすく説明すると、三毛猫?

 

 

 

【 現在の岡山県瀬戸内市 下笠加の風景、正面 我城山 】

 

 

 

【 明治時代に作られた 笠加 周辺の地図  片山の地名は無い。】

 

 

 

 その故 小林 種次さんが唱えていた、片山こと、

 

下笠加と言う場所を訪問して見たら、当時、四角い

 

マス目のエリアを設定して、徹底的に聞き込みを行った

 

のですが、古い井戸や、刀工の言い伝えなどは皆無

 

でした。三毛猫アセアセ

 

 

 

 

但し、我城山と呼ばれる小高い山の上に、南北朝時代の

 

延文頃、つまり、備州長船兼光の時代に創建という

 

玉持八幡宮がありました。

 

ここの神社についても調べて見たのですが、

 

片山一文字についてのことは、何もわかりませんでした。三毛猫アセアセ

 

 

 

 

頂上には、戦死された人達の供養塔が建っていました。

 

 

 

 

   【 我城山から北方向 福岡の町、長船の町を撮影する。】

 

 

三毛猫?

 

 

 ところで、備前長船刀剣博物館から南に4キロ

 

程度行った場所の下笠加と言う地域を調べて見たら、

 

戦前の明治から大正にかけて、片山と言う地名の

 

場所があったことが、故 小林 種次さんの文章

 

の通り確かにありました。

 

 ただし、その先、江戸時代、室町時代には

 

片山の地名は確認出来ませんでした。

 

 

 

 

その場所は,我城山の麓の法尻の一帯を大字片山

 

と呼んでいた時期が過去あったそうです。

 

 

 

 

 

 備前池田家の古文書や、絵図を見て確認したのですが

 

見つけられませんでした。

 

 

 

つまり、具体的な証拠になる場所、品は一切

 

存在していませんでした。

 

 

 

 地元の人の聞き取りのお話しとして、今現在の

 

下笠加の農地は干拓で、室町時代は、河岸線が

 

我城山の麓で、遠浅の河川敷のような土地が広がり、

 

大雨で洪水が発生すると、水没する場所ではなかった

 

のかと、そう言うお話しがありました。

 

 

 

【 明治時代の岡山県倉敷市髙梁川は二手に分かれて流れていました。】

 

 

三毛猫!!

 

 最新の研究のお話では、と言うか,僕が10年程前に調査して

 

発表した説では、青江刀工の1部が、水害を避けるために、

 

現在の岡山県倉敷市酒津から祐安付近から、岡山県総社市地頭片山の

 

地に移住し、高山城の東側の山陽道沿いの地頭片山の地、

 

そこで長巻の生産を行っていたのですが、その刀工の1人則房が、

 

備前国吉岡一文字の里で修行し、片山の地に戻って、華やかな

 

丁字刃の長巻を多数作刀し、それを片山一文字と呼ぶようになり、

 

片山一文字の刀工は、青江刀工であったとされています。

 

その証拠に、初期の則房の長巻直しの作品は、青江刀工の刃の

 

低い作品が在銘品が残されています。

 

そして、その後、がらりと刃が高く、華やかな作品に変化して

 

行きます。

 

これも 在銘品が残されています。

 

銘と、銘を比較検討すると、今現在は同一人物とされています。

 

 

 

 

そして、その丁字刃に影響されて、青江刀工は、地味な刃の低い

 

作品から、青江の逆丁字刃と呼ばれる評価が高く美しい刃紋を

 

焼くように変化して行ったとされています。

 

 

 

      【 岡山県総社市の地頭片山付近の遠景 】

 

 

その証拠に、現在残っている片山一文字の作品のほとんどが

 

長巻直しの作品で、そのお話しを裏付けています。

 

ここのところをどう説明するのか、仮説が立証される前に、

 

故 小林 種次さんが他界され、今は、片山一文字と言う

 

作品は、近年は、備前刀では無く、備中刀とされ、現在に

 

至っています。三毛猫アセアセ

 

 

 

 

三毛猫?

 

 古い井戸の跡、発掘調査の結果、作品の銘、古文書、 こういうのを

 

研究して、可能性をあげて、消していく作業が必要なようです。

 

みなさん、南北朝時代の片山一文字は、そのほとんどが摺り上げ無銘

 

の作品ですが、きれいな刃紋で手に持つと、心が和みます。

 

機会があったら、大切っ先の長巻直しの作品が多いですが、

 

買い求めて、楽しんで見ていただけたらと思います。三毛猫ラブラブ

 

 

 

 

 三毛猫 じゃあ、みんな また 今度ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】【転載コピー自由です。】