第1096回 備前国 高取山城跡を見学する。
2021年10月21日 木曜日の投稿です。
【 備前国 高取山城跡 岡山県瀬戸内市邑久町東谷 】
今日のお話は、戦国武将 宇喜多 直家の生まれたとされている
備前 豊原庄 砥石城から西に1キロ程度移動した場所の 東谷と言う
場所にあったとされている 高取山城跡を写真撮影したお話しです。
【 現在の豊原庄付近の水田の様子。】
室町時代の天文頃、備前国豊原庄があった、
邑久【おく】と言う地域の郡代は、島村家と言う
武将が代々務めていたのですが、その上の身分の
守護代の浦上氏の家来に、ここ豊原の宇喜多と言う
一家がなり、どんどん勢力をつけて、砥石城の城主
となり、隣あわせの近所であった、島村 盛実 と
言う郡代は、
「 いずれ自分達と取って代わられるのではと。」
警戒心をあらわにしていったようです。
【 高取山城 東側の 東谷の様子 】
そんな郡代の島村 盛実の城が、 高取山城と言われているの
ですが、不明瞭で、よくわかっていないそうです。
いつ、築城されたのか、 いつ頃城がなくなったのか、
詳細がわかっていないそうです。
【 室町時代の 瀬戸内市の推測の絵図 】
上の絵図を参考にすると、砥石城も、高取山城も、北側に
長沼という沼があって、天然の堀のような役目をはたして
いたようです。
【 現在の 城跡の北側の川の様子。】
現在の川幅より、北側にもっと幅が広い自然の沼が
広がっていたようです。
東側は、谷を流れて沼に注ぐ小川があり、水堀の役目を
していたと思われます。
【 備前国 高取山城跡 】
ここの城主 邑久郡代 島村 盛実 は、天文三年【1534年】に、
夜に兵を東に向け、東隣の砥石城を攻撃し、城主 宇喜多 能家【よしいえ】
を殺害したと言い伝えがあり、その25年後、永禄2年【1559年】
今度は、殺害した孫の宇喜多 直家に攻められ、落城したと言い伝えが
残っています。
それがもし本当なら 1559年頃に、高取山城は、焼け落ちたの
かもしれません。
ところで、ここの城主の島村氏にお祖父さんのお城の砥石城を夜中に
攻められ、お父さんと一緒に逃げだし、取引先の商人、備前国
福岡庄の商人 阿部家を頼り、船で吉井川を下って
命からがら脱出したそうですが、 現在の広島県福山市鞆港に
落ち延びたそうです。
【 備後国 鞆港【とも みなと】 こと、 広島県福山市鞆町 】
ここの鞆港は、将軍足利義昭や、幕末は、いろは丸が沈没し、
坂本龍馬などが逃げ込んでいたことで有名な場所ですが、ここの港は、
室町時代、伊予国の守護 河野家の配下の河野水軍の停泊地としても
知られていたそうです。
【 伊予国 河野水軍 所縁の寺 備後国 鞆の本願寺 広島県福山市鞆町後地】
鞆町 後地に 河野家所縁の寺 本願寺 と言う寺院があり、
阿部家の支援で、父親、宇喜多 興家 と幼児の 宇喜多 直家は、ここの
門前町で隠遁生活を送っていたそうです。
そして、父親が亡くなり、 宇喜多 直家は8才の時に 孤児に
なっていったそうです。
その直家を養育していたのは、備前国 福岡庄の阿部家の下女
だったそうです。
【 備前国 福岡庄の絵図 】
最近の研究で、この福岡庄の絵図から、現在の吉井川は福岡の町の西側を
流れていますが、この絵図は、福岡の東側を流れているのがわかります。
【 現在の岡山県瀬戸内市 福岡の町並み 】
【 当時の吉井川は、 福岡の町の東側を流れていた。】
今現在の 吉井川の備前大橋付近から、吉井川は、一直線に、
長船方向に流れ、現在より、随分東側を流れていたと言われています
次回は、その吉井川をさかのぼって、 孤児となった宇喜多 直家が
向かったとされているお城の跡を紹介する予定です。
「 ふふふふふふっ。」 「 つんつん。」
「 ふんだっ。」
【第1099回 備前国 天神山城跡を見学するに続きます。】
【 次回に続く。】 【 転載コピー自由です。】