大粒の雨がまばらに落ちた。遠くに雷の音を聞いた。
小走りで行く女性がいた。私は歩みをゆるめて灰色の空を見た。


――天然パーマ


湿気を帯びた前髪、それはカール。
サイドから後ろにかけてこんもりとうねり、渓流の岩場のような流れを形成する。ウェーブ。
今朝方押さえつけた寝ぐせはこのとき復活。ボリューミー。


あわてない。あわてることはない。
なぜなら、必死になって両掌で頭髪をなだめても徒爾だからである。


剛毛、そして天パ、プラス湿気。
雨は顔に数滴落ちて、以後本降りにはならなかった。


私は白痴である。
染色体異常、低IQ、精神遅滞、知恵遅れと呼び名は多々あるが、カラスを指して鳥と呼ぶように、私を指して白痴と呼ぶが妥当に思う。
自己紹介は以上で終わる。自分語りのためにウェブログを書き始めたわけでない。



天啓と幻聴の峻別は可能であるか。
天啓を聞けるのなら預言者であるし、幻聴を聞くのなら統合失調症である。
預言者と患者の違いが単に指導力の有無であるなら、天啓と幻聴の境界はあいまいである。


いま、私の頭を流れる声が天啓であるか幻聴であるかは大きな問題である。
金属楽器の調子に合わせて、「青が黄色くない理由」を問われている。
長い長い異国の言葉で、サンスクリット語のテロップが流れ、しかし意味だけ汲み取れるという、これが幻聴である。
私は空の遠くを見、刮眼しあるいはぼんやりと眺め、「詳しくはわからない」と念ず。
異国の言葉はやさしく応じ、「ならば回れ」と私に命ず。これが天啓である。


白痴は治らぬものである。そして治らぬ故に特典があるのだ。治る病に特典はない。
例えば末期ガン患者がある種のさとりを得るように、白痴もある何かを得ているのである。
だから諸賢、街角で白痴が回っているとき、彼は何かを得ているのだと心得てほしい。