さてさて………………

【慈照寺(銀閣寺)】【浄土院】【八神社神社】を出発した我々は、次なる目的地を目指した……………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ


目的地を指す石標も道中で発見上差しカメラ虫めがね

左矢印方面は、【陽成天皇陵】【後一条天皇陵】上差しカメラ
右矢印方面が次の目的地だ上差し

左矢印方面のふたつの天皇陵には、令和5年(2023年)11月18日に行ってますねお願いお願い上差し


【白沙村荘 橋本関雪記念館】

…………………の前を通りましたランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ

そうすると、次の目的地に到着ーーーーっ!!


おおーーーーーーーっ!!!!

ここかーーーーーーっ!!!!


【後二条天皇 北白河陵】
京都府京都市左京区北白川追分町


徳治3年(1308年)8月28日、北白川殿で火葬し、そのまま陵とされた。中世に荒廃したが、元禄探陵の時にこの地が陵に擬定され、幕末に修補を加えたという。


なお、分骨所が父後宇多天皇の【蓮華峯寺陵】内にある。


【後二条天皇(ごにじょうてんのう)】
1285年ー1308年
日本日本の第94代天皇。


大覚寺統であり、後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀河基具の養女で実孫の基子(西華門院)

後醍醐天皇の異母兄にあたるびっくり


後宇多天皇は置文として、後醍醐天皇は中継ぎに過ぎす、後二条天皇の嫡流こそが大覚寺統を継ぐべきことを厳しく指定しておいた鉛筆

そのため約束を守った北朝側からは後醍醐天皇の中宮となった西園寺家の禧子が女院号宣下され、後二条天皇の皇孫康仁親王(皇太子のまま没した邦良親王の皇子)までが立太子された。


後二条天皇の即位は、鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後三年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになったびっくりアセアセ


当時は南北朝分裂への過渡期にあたり、「天の下の人、また押し返し、一方に靡(なび)きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」と慨嘆される時世であったという。


徳治3年(1308年)8月に病を得て、同25日在位7年にして二条高倉皇居で崩御えーんアセアセ

宝算24。

同27日、二条院の加後号として「後二条院」を追号された。


【後二条天皇皇子 邦良親王】
同じ敷地内にあるお願い


親子でそばに眠ることが出来てるんだ。

この日、ふたつ目チョキの天皇陵。
京都にいる間に参拝お願いに来れて良かった。

さてさて、そろそろお腹も減ってきましたチューアセアセ

次回は、お待ちかねの!?!?ランチタイムナイフとフォークで〜すウインク



続く……………………。