11月22日、石巻で秋の研修会を開催しました。
14名に参加いただきました。
予定を詰め込み、盛沢山の内容になりましたので、4回に分けてレポートします。
まずは日和山で、たくさんある歌碑や句碑、像などを巡りました。
はじめに、「たい平桜」。
大学卒業を控え、進路に悩む林家たい平さんが石巻を訪れ、まだ幼木だったこの桜の木の前で落語家になることを決意したというエピソードから、「たい平桜」と命名されています。
林家たい平さんは、震災からの復興に当たって、また今でも宮城・石巻を応援し続けてくださっていますね。
次は、自由律俳句の種田山頭火。
「水底の雲もみちのくの空のさみだれ」
「あふたりわかれたりさみだるゝ」
昭和11年にこの地を訪れています。
「早い朝湯にはいってから日和山の展望をたのしむ 美しい港風景である」という日記の一節も刻まれています。
川村孫兵衛重吉の像です。
伊達政宗公に見出され、石巻港に至る北上川の河川改修などを行った治水の名手です。
毎年、石巻川開き祭りで実施される「孫兵衛船競漕」の孫兵衛さんですね。
川村孫兵衛重吉像の指さす方向には、石巻の代表的な風景が広がります。
逆光ですみません。
釈超空。本名、折口信夫の歌碑です。
「海のおも いよいよ青し このゆふべ 田しろあぢしま かさなりてみゆ」
歌人、国文学者、民俗学者として有名な折口信夫が、昭和23年に石巻を訪れたときの一首です。
石川啄木の歌碑です。(これも読めませんね。すみません。)
「砕けてはまたかへしくる大波の ゆくらゆくらに胸おどる洋」
明治35年に盛岡中学五年生、17歳の啄木が、修学旅行で石巻を訪れ、長浜海岸を読んだ二首のうちの一首です。
新田次郎とフランク安田(安田恭輔)の碑です。
フランク安田は石巻の出身で、アラスカに渡り、現地の酋長の娘と結婚し、現地の人々の教育や経済発展に貢献した人物です。新田次郎が、フランク安田を「アラスカ物語」で取り上げ、小説として広く紹介したため、このように碑が建てられています。
ここでいったん階段を上り、鹿島御児神社の大鳥居の下で記念撮影。
逆光にならないよう階段の下から撮影しましたが、普通は美しい海をバックに撮りますね。
さて、後半戦。
まずは、宮沢賢治です。
明治45年、中学四年の修学旅行で、日和山から初めて海を見たときの感動を詠った詩が刻まれています。
「われらひとしく丘にたち
青ぐろくしてぶちうてる
あやしきもののひろがりを
東はてなくのぞみけり
そは巨いなる鹽の水
海とはおのもさとれども
傳えてききしそのものと
あまりにたがふここちして
ただうつつなるうすれ日に
そのわだつみの潮騒の
うろこの國の波がしら
きほひ寄するをのぞみゐたりき」
既に後の詩人・童話作家の片鱗が見えます。
偉人の碑とはいったん離れますが、いっきゅう会会員の一人がその昔、この鯨の像の前で酒をまさに「鯨飲した」という話が面白かったので、小休止で載せました。
松尾芭蕉と曾良の像です。
元禄二年(1689年)5月10日に石巻に一泊しています。
なぜ、芭蕉だけでなく、曾良と二人の像なのか。
『石巻まるごと歴史探訪』(石垣宏ほか)から引用します。
「おくのほそ道に、石巻では宿貸す人が無かった、石巻の人は不人情であると全国に宣伝するような記述があります。しかし、昭和18年に、随行した曾良の日記が発見され、前述のように四兵へ宅を紹介したことが記されていて、宿を貸さなかったのは登米であることがわかったのです。それで二人の像で正解なのです。」
いやいや、登米も人情に厚い土地ですよ。
最後に斎藤茂吉の碑です。
「わたつみに北上川の入るさまの ゆたけきを見てわが飽かなくに」
昭和6年、茂吉50歳のときに、石巻を訪れています。
大どころはこんなところですが、他にも様々な碑がありました。
昔から、石巻に来たら、まずは日和山に上ったのでしょうね。
そういう意味で、研修会のスタートの地として正解だったような気がします。
(執筆:ひとしさん)













