《トリビアNo.136》黒船がやってきた!-元文の黒船事件- | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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ペリーが浦賀(現神奈川県横須賀市)に来航したのが1853年(嘉永6)。来航した船は黒船と呼ばれ、徳川幕府終焉のきっかけとなりました。それから遡ること114年前の1739年(元文4)牡鹿半島から房総半島、伊豆下田にかけてロシア船が現れ地元民と接触しています。

時の将軍は享保の改革で有名な八代将軍徳川吉宗(1684~1751)、仙台藩は五代藩主伊達吉村(1680~1752)の時代です。

ロシア側の探検隊を率いていたのがヴィトゥス・ベーリング(1681~1741)。デンマーク生まれでロシア海軍に入隊した彼はロシア皇帝の命を受け、ロシアの東端海域の状況を探検・調査していました。その船団の分隊長だったマルティン・シュパンベルグは日本の太平洋沿岸を訪れていました。

元文4年5月19日(西暦1739年6月17日)に気仙沼大島沖に到着した調査船は周辺を観測、船団はすぐに移動し5月23日には網地島南岸沖に現れ大騒ぎとなっています。この時の様子を記した「元文世説雑録」を現代文にすると「島の沖合に2艘の異国船が現れた。四角形で三千石積(約450t)ほどの巨大な船である。(中略)船体は真っ黒で鉄で出来ているようで頑丈そうである。船の両側に大砲のような仕掛けが備え付けられている。一隻に70人程の乗組員がいるようだ。」と記されています。島の人たちは、彼らが島に上陸しないよう警戒しながらも、なんとこの異国船に近づき物々交換をしたそうです。恐怖心より好奇心が優ったということでしょうか。

網地島にはこの事を記念した標柱と銅像があります。標柱は網地島の根組浜の海岸に降りる途中にある「ベーリング探検隊投錨地」です。四角い標柱で、解説文が消えかかっているのが気になりますが、日本とロシアの初めての交易の地として建てられました。

(ベーリング探検隊投錨地の碑)

(根組漁港)

銅像は網地浜の船着き場と海水浴場の間にあるベーリング像です。

(ベーリング像)

網地島沖に来たのは、シュパンベルグであってベーリングではないのですが、ベーリング没後250年を記念して1991年(平成3)に建てられました。銅像は現存する肖像画等を参考に製作したようです。

その後、ロシア船はどうなったのでしょう?25日には亘理の荒浜沖、26日は亘理の磯浜沖(現山元町磯浜)へ、28日には田代島三石崎沖と仙台藩の沿岸を行ったり来たりしています。

(田代島 三石崎)

田代島三石崎沖では浜役人・千葉勘七や組頭・善兵衛らがロシア船に上船した記録が残っています。船員の顔や姿、服装、船に積まれていた鶏、犬まで仔細に記録しています。しかし、追いかけるように仙台藩の一千人近い軍勢が、船で押し寄せたため身の危険を感じ錨を上げて、田代島沖から去ってしまいます。ロシア船は牡鹿半島の北側に回り鮫ノ浦湾にある谷川浜に上陸、井戸水を汲んでその代価として銀貨一枚を百姓・平三郎に与え、北方へ帰っていきました。


(谷川浜と谷川漁港)

この時点で、仙台藩も幕府もこの船がロシア船であることは判っていません。同じ探検隊の一隻が安房国天津村(現千葉県鴨川市)に上陸した際の銀貨や谷川浜の銀貨などが江戸に送られ、さらに長崎のオランダ商館に持ち込まれ、やっとロシアの船と判明します。その後、若宮丸遭難事件や仙台藩の北方警護など、ロシアとのかかわりが増えていくのですが、幕府や仙台藩がロシアを意識した初めての事件でした。

 

参考文献

宮城県史

石巻の歴史第2巻(1998)石巻市史編さん委員会

元文の黒船―仙台藩異国船騒動記―(1989)安部宗男

 

(執筆:斗田浜 仁)