いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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  難関ご当地検定として知られる宮城マスター検定1級の合格者で作る「いっきゅう会」のメンバーが、宮城の魅力をお伝えします!

令和8年4月某日、桜咲くなか仙台市若林区木ノ下にある国史跡の陸奥国分寺跡を訪れましたので、そこで発見(推論)したことをご紹介します。

(陸奥国分寺・仁王門)

(陸奥国分寺薬師堂) 

 

《陸奥国分寺跡ってどんなところ?》 

地下鉄東西線の薬師堂駅から徒歩3分で陸奥国分寺薬師堂に到着です。その敷地一帯には、かつて陸奥国分寺がありました。 

陸奥国分寺は、奈良時代の741(天平13)年、聖武天皇によって全国に建立を命じられた国分寺のうち、最北のものです。実際に造られたのは、8世紀中頃ではないかと考えられています。現在の陸奥国分寺薬師堂は真言宗智山派の寺院です。南大門跡に仁王門(宮城県指定有形文化財)が、講堂跡に薬師堂(国の有形重要文化財)が建っています。薬師堂は、1607(慶長12)年に伊達政宗公が、和泉国(大阪府)の大工らに修造させた桃山様式建築です。仁王門は、入母屋造・茅葺きの八脚門です。 

陸奥国分寺跡では、1955(昭和30)年〜1959(昭和34)年、全国初の国分寺伽藍全体の調査が行われました。これにより、800尺(約242m)四方を築地塀で囲み、南北一直線上に南大門・中門・金堂・講堂・僧坊が並び、金堂の東に回廊をもつ七重塔、鐘楼・経楼が金堂・講堂の東西に配置される大伽藍であることが判明しました。また、屋根には偏行唐草文軒平瓦と、多賀城と同じ八葉重弁蓮華文軒丸瓦とで葺かれていたことがわかり、七重塔の青銅製相輪軸(擦管)の先端も出土しました。この相輪軸(擦管)は高熱を受けていたため、『日本紀略』にみられる934(承平4)年の落雷による陸奥国分寺七重塔焼失が裏づけられました。 

なお、741(天平13)年の聖武天皇が出した国分寺建立の詔では、国ごとに国分寺とともに「国分尼寺」も造るように命じており、陸奥国分寺跡の約500m東(仙台市若林区白萩町、同宮城野区宮千代)には同じく国史跡の国分尼寺跡があります。

 

《陸奥国府多賀城や沿岸を航行する船からも見えたであろう「七重塔」》 

薬師堂、東側の白山神社(本殿が県指定有形文化財)、西側にある仙台三十三観音25番札所の准胝観音堂にお参りし、仁王門や鐘楼堂(仙台市内最古の木造建築物・仙台市登録有形文化財)などの建築物、句碑、陸奥国分寺跡の遺構を見学した後は、理解を深めるためガイダンス施設を訪れました。 

(白山神社本殿)

(准胝観音堂)

(鐘楼堂)

(史跡陸奥国分寺・尼寺跡ガイダンス施設) 

 

発掘調査のパネル等で一番気になったのは、七重塔の上を飾る相輪の擦管が、塔跡北側の地中に逆さまに突き刺さった状態で発見された写真でした。750年代に造られ934年に落雷で焼失するまで実に約180年もの間、高さ1.2mの基壇の上に屋根の初層が一辺10m、高さが57m程の七重塔が建っていたことになります。七重塔についてはパネルなどに次のような興味深い説明がありました。七重塔が大変重要な役割を果たした建物であり、かつ陸奥国府の多賀城や沿岸の船からも見えるシンボリックな存在だったことが伺えます。

・聖武天皇の直筆による「金光明最勝王経」を七重塔に納めており、経典により国家を擁護してもらうことを願った。 

・国分寺では、金光明最勝王経の転読や講義等、恒例の宗教行事が行われていた。また、災害や疫病の流行などに対しても、朝廷の救民等に合わせて経典の転読等を行っていた。こうした国分寺・国分尼寺の活動の中心になっていたのが七重塔。 

・陸奥国分寺では、平野からよく見えるよう寺域の東部に七重塔が建てられている。塔は初層が10m四方で、高さは約57mと推定されている。陸奥国分寺の標高は約15mほどあるので、当時は沿岸を航行する船からも見えたと考えられる。 

・国分寺と国府の距離は多くの国で約4km以内だが、陸奥国分寺は目視可能ではあるものの、国府多賀城から南西に約10kmほど離れている。

(七重塔イメージ・ガイダンス施設パネルから)

(相輪の擦管・ガイダンス施設内写真) 

 

《「七重塔」は近世以前の宮城で最も高さのある木造建築物だったかもしれない?》 

最後にある“疑問”を抱きながら、もう一度、七重塔があった場所を訪れました。 

“疑問”というのは、陸奥国分寺の七重塔(推定約57m)を超える高さの建築物は近世(江戸時代)以前の宮城に存在したのか?という雲を掴むようなもの… 

まず、思い浮かんだのは平安時代中頃に貴族の子どもたちが教科書として用いた『口遊(くちずさみ)』に、「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」という当時の大型建造物を示す記述。出雲大社(平安時代中頃・約48m)が最も大きく、次いで奈良の大仏殿(奈良時代創建当時・約37m、現存49.1m)、3番目に京都の大極殿(推定約27m)の順であることを意味します。これだけではピンと来ないので、思いつくままに現存する多層塔等や、現代の建物の高さを調べてみました。 

【現存するもの】 

・東寺五重塔(江戸時代の再建)約55m  ◆陸奥国分寺の七重塔に近い高さ 

・法隆寺五重塔(6世紀後半〜7世紀前半)約32m ◆日本最古の木造五重塔 

・薬師寺東塔(三重塔)(8世紀前半)約34m ◆創建年代が陸奥国分寺の七重塔と近い 

・羽黒山五重塔(10世紀(承平年間)に平将門創建の伝説・14世紀に再建)29m ◆陸奥国分寺の七重塔が落雷で焼失した同時期に創建

 

【現存しないもの】 

・東大寺の七重塔(東塔・西塔)約70m 

◆東塔(奈良時代の724年に完成、460年後に焼失。鎌倉時代に約92mで再建するも落雷で室町時代に焼失。) 

◆西塔(平安時代に落雷で焼失後は再建されず) 

・相国寺(京都)の七重塔 約109m 

◆室町時代(1399年)、三代将軍足利義満によって建立。4年後に落雷焼失。北山で再建されるも13年後に焼失。相国寺の旧地で再建するも54年後に再び焼失。 

 

【木造の多層塔以外で比較(いろいろ)】 

・大阪城(石垣を含め約55m)

・太陽の塔(約70m)

・通天閣(108m)

・宮城県庁(89.8m)

・白石城(復元。石垣を含め約27m)

・会津若松城(復元。石垣を含め約36m)

 

ご存知のとおり仙台城は天守閣が設けられなかったことから、城内の主要な建築物としては大手門、大広間、懸造、櫓などがあげられますが、全国的に見ても稀有の壮大な城門であったとされる大手門にしても、建物高さは地上から二階屋根桁上端まで約8.2mでした。古代のみならず中世・近世を通じても57mを超えるような高さの建築物は宮城県内では存在しなかったのではないかと筆者は推測します。この件については、現時点で論考されている資料等がないことから、今後の研究に期待したいと思います。 

【参考資料】 

「仙台市文化財パンフレット第62集(改訂版)史跡陸奥国分寺・国分尼寺跡」2025年改訂 仙台市教育委員会文化財課 

『日本史のなかの宮城県』関口茂樹編 2024年 山川出版社 

『宮城県の歴史散歩』2007年 山川出版社 

『仙台市史 通史編2 古代中世』 

『仙台市史 通史編3 近世1』

 

(執筆:みのるさん)