カルメンシータ。自由に生きて、恋に堕ちた女。恋人に殺されて、命と引き替えに永遠の愛を得たファムファタール。

私がマダムロゼの弟子でありながら、木曜日の夜だけ下町の居酒屋で踊っている。

厄介なファンが一人いた。この不景気だから、疫病神でもお客さまは神様だ。

彼は売リ出し中の若い舞台俳優。うちの踊り子達が憧れるような伊達男。

「あなたの踊りはカルメンシータそのものですね、鬼百合姫」

彼のサインが欲しいとせがむ妹分に頼まれて、私は彼に声をかけたらそう言われた。

「お褒め頂き光栄です。でも、私はあの伍長みたいな男はタイプじゃないわ。闘牛士ならまだまし…かな?」

「そうですか。僕の今度の舞台での役は闘牛士なんだけど。剣を習った事がないから、鬼百合姫に剣の稽古をお願いしたいのですが」

「剣の稽古なら、男性の軍隊あがりの剣士にお習いになる方がよろしいかと」

私は駆け引きでこんな風に断っているわけじゃない。ただ、店に来たお客さんをにっこり笑って丁重に追い払っているだけなのだ。

「僕が演じるのはカルメンシータを愛する二人の男です。純朴な伍長と色男の闘牛士。カルメンシータ役のオーディションが来週あります。ぜひ受けて下さい。実は座長から、あなたの踊りを見て来いと言われまして。噂の鬼百合をカルメンシータの舞台で使いたいから、口説いて来いとね。あなたは居酒屋の踊り子のままで終わるおつもりですか」

どうやら、この男は私がただの下町の踊り子だと勘違いしているらしい。

木曜日だけ踊り子をやっている、薔薇の女伯爵の弟子の一人だとも知らずに。

「僕がなぜ毎週木曜日にこの店に通うかはおわかりですよね?」

熱い目線で男は私の手を取るとそう言った。
一瞬、胸が高鳴る。
「僕はロマ族の男です。貴女もロマ族の女なら、わかるはず」

ロマ族…カルメンシータと同じ民族。

残念ながら、私は捨て子だから、自分が何の民族かなんて知らないのだ。ただ、私を育てた母が生粋のロマ族だったから、ずっとロマ族だと思っていたし、そうあろうとした。

「ロマの踊り子なら、私の妹分の方が嵌り役でしょう。私の前座で踊ったあの女の子。私の自慢の一番弟子です」

彼はふむ、と言って少し考えた。
あの子は舞台女優を目指していて、カルメンシータ役をいつかやりたいと言っていた。

「じゃあ、彼女をオーディションに連れて来て下さい。あなたの自慢の妹分だと言うなら」

剣士さまは悩みながらも、私の核心をついた言葉に対する応えを誤魔化すように、顔を近づけた。私はそうはさせまいと、彼の唇に指を当てて塞いで微笑んだ。
本当は剣士さまとキスしたいし、今夜だけでも妻にして欲しい。でも、それではまた、あのちいさな菫に戻ってしまう。
「私、あのまま菫でいたら、椿になってしまう所でした。だから、剣士さまにはすごく感謝してます。ご恩に報いる為なら、今夜だけ抱いて下さっても構いません」

剣士さまは私を抱いたまま、私をじっと見つめている。今にも泣きそうなつらそうな顔で。

「確かに、あのままあの家にいたら、菫はきっと椿になって死んでしまっただろう。そんな女は歌劇の舞台だけで充分だ」

剣士さまは、大きくため息をついて、私のおでこにキスして、天使の眠るベッドの端に降ろした。


「戦から帰って来て、君がただの居酒屋の踊り子のままなら、迷わず田舎に連れて行っただろう。でも、もう君は百合の名前に相応しい女として、薔薇の女伯爵の弟子になった。この四年の間、よく頑張った。師匠として鼻が高いよ」

寂しそうに微笑む剣士さまを私は胸に抱きしめた。強く優しく。
彼は誰かを抱くよりも、こうして誰かに抱きしめて欲しかったに違いない。
ひとりぼっちの旅の剣士さま。

「百合ちゃんは大人になったな。柔らかくていいおっぱいだ…んん、うまそう」

笑いながら、剣士さまは私の胸に顔を埋めたまま頬ずりして撫で始めた。

「きゃっ…やだ、剣士さま、セクハラです!」

思わずびっくりして、体がまた熱くなった。慌てて剣士さまから離れた。

「おいおい、ちょっと胸触っただけでそれかよ。大人になったかと思えば、中身はまだ子供だな。大胆にベッドに誘ったのは君だろう?」

にやにやと意地悪く笑う剣士さまの表情は、昔のまま。ちいさな菫をからかうお兄さん剣士の悪戯っぽい目。

「いやらしい触り方をなさるから、びっくりしました」

「いやらしくないおっぱいの触り方なんてあるわけ?医者ならともかく。なんなら、一晩かけて、いやらしくない触り方の研究を」

私は枕で剣士さまを殴った。

「ははは、よせよ。わかったから。センセイが悪かったから…な?」

私は赤面しながら苦笑して言った。

「ここに可愛い天使の堤防がありますから。これなら安全でしょう。今夜は三人で川の字で寝ましょう」

剣士さまは優しく頷いた。

幾千の蜜月よりも甘い夜の優しい夢。


「今夜は一緒に寝ていいですか?」

寝酒のワインの瓶が空になり、私と剣士さまはうとうとしだした。

私の言葉にびっくりした剣士さまは、柄にもなく顔を赤くした。

「いいのか、百合」
「はい。今夜でお別れですから」

剣士さまは暫く逡巡して、じっと私を見た。

「あのな、百合ちゃん。さっきは、その。我慢の限界で…結局、今夜は女に振られて芝居小屋を覗きに行ったから、まあその」

もじもじと照れる可愛い剣士さま。
くすくすと笑って、私は意地悪をした。
「あら、じゃあなんで香水の匂いなんかつけてお帰りなの?」

「それは、その。酒場の女に言い寄られて、ちょっとキスされただけなんだが」
「正直に白状なさい、剣士さま。カツ丼でもとりますか?ついでに、母さんの歌でも歌いましょうか?」

昔の刑事ドラマのシーンの再現で、私は剣士さまに自供を促した。

「君は本当に…ジョークに磨きがかかったな。薔薇の女伯爵のお仕込みかよ」

ははは、と剣士さまは笑った。

「恋人はいないのか?」

「うーん。内緒。でも、ボーイフレンドは沢山いますね」

「ふうん、そう」

剣士さまはちょっとつまらなそうに顔をしかめた。

ヤキモチ、ですか?それ。もしそうなら私、嬉しい。

「まあいいや。百合ちゃん、今夜は一緒に寝ようか。朝までたっぷり…」

剣士さまは立ち上がって、私の手を握った。熱い視線を注がれ、ほんの一瞬、心臓が止まった。

「ベッドにお連れ下さる?」

剣士さまはにっこり笑って、私を抱き上げた。

「ゆ、百合ちゃん、重い!少しはダイエットしないと。もう、旅の女剣士じゃなくて淑女なんだから。こんなに重くちゃ、やわな貴族の紳士じゃお相手出来ないぞ」

「やわな紳士なんか、こちらから願い下げです…ああ、ベッドはあっちです」

剣士さまにお姫様抱っこされながら、私は天使が眠るベッドを指差した。

「え、まさか…」

剣士さまは天使の寝顔を見ながら、固まった。

「あらあら、まさか剣士さまってば。なんか変な事考えましたか?」

「…百合ちゃん、君、ひどい。こんな小悪魔テクで男の純情を弄ぶなんて…まあ、薔薇の女伯爵の弟子らしいけどさ。すっごく期待したのに、俺」

くすくすと笑いながら、私は剣士さまの前髪を指で梳いた。そして、冗談めかして本音を言った。

「私を可愛い天使さまと一緒に、田舎にお連れ下さるなら、喜んで。さあ、隣の部屋へ参りましょう」