稚内市は、昭和53年7月、「開基百年」を記念して、稚内公園の丘陵上の海抜170メートルに開基百年記念塔を建設した。

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 鉄筋造2階建の「北方記念館」を基部に、地上80メートルの高さをもつ鉄筋コンクリート中空型の「記念塔」からなっている。
 北方記念館は1階と2階にわたって、郷土および樺太関係の資料が揃っているが、ここに間宮林蔵の樺太から沿海州への旅の記録が展示されていた。
 彼の見た樺太は、村上貞助によって、「北夷分界余話」「東韃地方紀行」(3巻あり、林蔵の口述を貞助が編纂して挿図を入れたもの)としてまとめられ、1811年(文化8年)に幕府に提出された。
 前者には樺太の地名や地勢、民俗が、後者には清国の仮府(一時的な役所)が置かれていたデレンを中心に、黒龍江(アムール川)下流での調査が報告されている。

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 林蔵が海峡を渡ってデレンに行けたのは、サハリンの住民ニヴフNivkh(ロシア語での複数形はニヴヒ、Nivkhi)が清への朝貢の旅に林蔵を伴ってくれたためである。
 ニヴフはサハリン北西部からアムール川下流域にかけて居住していた。林蔵は彼らの生活をよく観察し、「北夷分界余話」などで、絵とともにリアルに記述した。当時はアイヌがニヴフのことを「スメレンクル」とよんでいたため、林蔵も彼らを「スメレンクル」としている。
 このニブフは、以前はギリヤークと呼ばれており、オホーツク文化を造った人々の末裔ではないかと大勢の学者から推論されているツングース系民族である。
 そのオホーツク文化を造ったであろう民族の末裔の案内で、林蔵は海峡を渡って沿海州のデレンへの探検の旅に行くのである。

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 松浦武四郎はアイヌ人の案内で北海道を探検し、間宮林蔵はアイヌ人とニブフの案内で樺太と沿海州を旅した。いずれも原住民の助け無しでは出来ない困難な探検の旅である。

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 その林蔵の旅が加藤九祚(かとう きゅうぞう、日本の人類学者、アジア文化史、創価国立民族学博物館名誉教授1922年5月18日 - )の手により、「間宮林蔵の見たギリヤク族」という論文に纏められている。
 非常に興味深い記述が随所にあるので、印象深い箇所を引用して紹介する。
 1,「スメレンクル」と「ギリヤク」の意味  まずギリヤクの名称だが、林蔵はギリヤクのことを「スメレンクル夷」と称している。すなわち,「クル」はアイヌ語で人,「スメレン」はサハリン・アイヌ語のSsumari(キッネ)に由来している。
 したがって「スメレンクル」は「キッネびと」の意で,ギリヤクがキッネの毛皮を取引したためか,あるいはそれを着たせいであろう。
 ところで「ギリヤク」という呼称はどうか。
 多くの学者は,ツングースが周辺諸族からKiliとよばれていたことに結びつけている。
 スモリャクは,17世紀にこの地域に進出したロシアのコサックたちがすでに,ギリヤクについてこの呼称を用いていたことに注目し,ウリチ,ナナイ,オロチ,ネギダルなど,アムール河下流域のツングースがギリヤクを「ギレ」とよんでいたことに由来するのではないか,とのべている。
 ギリヤクの自称は,アムール河下流部でNivx、サハリン東岸の場合でNigvyngで,いずれも「人」の意である。