続いて、赤字2の湊神社(この近くに安東氏時代の船の出入口である水戸口があった。)の見学である。
 
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車を前潟沿いに走らせ、湊神社前に停車した。
古い神社だが、しっかりと鳥居も立っていた。
鳥居の右側に案内看板が設置されていたので、近くに寄ってみる。
 
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 浜の明神遺跡という看板が設置されていて、浜の明神(湊明神宮)が中世の安東氏時代の航海の守護神として鎮座していたと記されている。
 
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看板には市浦村史跡案内略図が付いていて、ここ十三湊が中世の史跡の宝庫であることが良く理解出来た。
神社の鳥居をくぐり、階段を上がり、湊明神宮まで辿り着き、更にそこから行けるところまで登り、そこから下方に広がる前潟方向を見た。
 
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この景色は、安東氏時代のものと幾らも変わらないのだろう。
 
景色を胸に留め、引き続いて十三湖が一望出来る赤字3の唐川城跡へ向かった。
唐川城は中世この地を支配した安東氏が築城した山城、何度か道に迷いながらその城跡に立った。
 
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案内板によると「唐川城は十三湖の北岸に位置する標高160メートルの山城である。城郭は掘によって、大きく3つの郭(北郭・中央郭・南郭)からなる平坦面と帯郭で構成されている。北・南郭には現在でも大きな井戸跡がある。城郭は十三湖や日本海の状況が手に取るように把握することが出来る理想的な立地であった。」とある。
 
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案内板に記載されている通りの展望が広がる。
 
安東氏は十三湊を中心に広く日本海沿岸に影響力を及ぼしたが、暦応3年(1340)に大津波で十三湊が一瞬のうちに海底に沈むと、その後凋落したという。
嘉吉3年(1443)に南部政盛に居城である福島城を奪われると唐川城に立てこもり交戦したが、持ちこたえる事が出来ず柴崎城に拠点を移した。
その後安東氏は北海道と秋田に逃れ、唐川城は廃城になったとみられ、近世以降も利用する武将はいなかった。