太宰治の生まれ育った金木町の旅も最後となる。
 イメージ 1
 
 
 
津軽三味線の音が耳に残っている中で、黄星印の津軽三味線会館から、金木町での太宰治の最後のゆかりの場所である赤星印の旧津島家新座敷(太宰治疎開の家)まで、赤矢印の道を通って歩いた。
ここは、大正11(1922)に太宰の兄文治夫婦の新居として建てられた津島家の離れで、現在地へ曳き家移転された。
 
 イメージ 2
 
 
この太宰治疎開の家で30分以上に渡って、現地の専門職員の方から懇切丁寧に、太宰の生きた時代や太宰を取り巻く人々の話を中心に伺った。
 
太宰の生きた時代は日本が世界を相手に戦争に向かった時代で、そんな時代の中で心中事件を起こしたり共産党に入ったり、太宰は地方の名望家の子弟としては最低の生き方をしていたと、世間的には見られていた。
勘当同然で生家を追い出された太宰は、この太宰治疎開の家で、ずっと付き合うことも無く過ごしてきた親兄弟や親戚との劇的な再会を果たす。
この疎開の家に居た1年は、太宰の人生の中でも幸せな時代であり、ここでは大切に扱われていた。
 
イメージ 3 
 
専門職員の方の案内で、太宰の母が病に臥していた10畳間、それを見て太宰が涙を流した洋間、太宰一家が寝起きした部屋などを見て回った。
 
太宰はこの家で、「パンドラの匣(はこ)」「苦悩の年鑑」「親友交歓」「冬の花火」「トカトントン」など数々の作品を執筆した。
 
イメージ 4
 
 
 
専門職員の方が、太宰はこの部屋で立ち膝でこんな風に机に向かって書いていたと説明した部屋で、太宰と同じポーズを取って記念写真とした。
太宰の魂に出会い、一緒に旅できそうな気がした。
 
太宰治疎開の家を後にして、黄線の道を辿って貴矢印の地点にある今夜の宿「エンゼル」に向かった。
「エンゼル」に到着したのは午後4時過ぎ、部屋でブラブラしたりテレビを見たり風呂に入ったりしているうちに夕食となった。
 
イメージ 5
 
 
 
部屋は安っぽかったが、夕食は豪華だった。
肉も魚も刺身も、その他のオカズもとても美味しかった。
食事は1階の食堂で、岩手県から金木町に合宿に来ていた中学野球部の生徒達と一緒に食べた。
彼らはとても礼儀正しくて、旅館の廊下やトイレで出会っても、見ず知らずの僕に対して、しっかりした挨拶をしてくれた。
ただ、夜中過ぎても眠らない夜を過ごしている彼らの騒音が気になり、何度もこの夜は起きてしまった。
 
翌朝、午前7時半には朝食を済ませ、ビール代を含めて1泊2食の料金7千円を支払った。
 
イメージ 6
 
 
これから練習に向かうために一列になって宿舎前に整列している野球少年達を横目で見ながら、エンゼルと金木町を離れた。