それではこれから、太宰治の生まれ育った五所川原市金木町へ向かう。
 
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木造から金木町の斜陽館(黒字Aの場所)までは約20km程、時間にして40分位かかった。
金木斜陽館前には10時半に着いた。
ここでの日程だが、まず斜陽館を見学、それから芦野公園近隣を散策、昼食は旧芦野公園驛を使って営業している喫茶店「驛舎」で激馬カレーをいただく。
当初の計画はこんなだった。
まず、あまりにも有名な斜陽館の見学である。
 
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斜陽館の現在の正式名称は太宰治記念館「斜陽館」、小説家太宰治の生家である。
建物は1907年に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。
太宰は中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。
 
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中へ入ってみたが、印象は大地主の豪邸そのものである。
 
木造2階建てで、青森県産材であるヒバをふんだんに使用し、階下11278坪、28116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の規模を有する。
外観は和風住宅であり、間取りも大規模ではあるが津軽地方の町屋の間取りを踏襲したものとなっているが、内部には洋風の旧銀行店舗部分や階段室、応接間等があり、また屋根構造は和小屋組ではなくトラス構造となっているなど、和洋折衷建築。
 
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明治時代に津島家は銀行業務を行っていたが、それはそのまま青森銀行に引き継がれている。
「斜陽館」は明治時代の地方の銀行建築でもあった。
 
太宰は小説津軽の中で、木造の父の実家に立ち寄っての印象をこう書いている。
 
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この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改造したものだという話を聞いているが、父は金木へ来て木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。
 
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私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、微笑ましかった。そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。
私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたような気がした。
 
 太宰は東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため実家から勘当、許されてこの家に戻る事が許されたのは1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後のこと。
 
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その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続けた。
 
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却。
町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された。
1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
その後旅館の経営が悪化、金木町は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発し、現在に至っている。