尾野旅館は鰺ヶ沢駅前にあった。
ナビが役に立たず、携帯で直接尾野旅館に電話して、位置の概要を確認してようやく到着した。
到着してみれば、何のことはない、尾野旅館は古くはあるが普通の駅前旅館だった。
 
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この尾野旅館で夕食までの間、司馬遼太郎の街道をゆく「北のまほろば」の鰺ヶ沢の章を読みながら、江戸時代の鰺ヶ沢の景色を空想した。
 
「北のまほろば」によると、江戸時代の鰺ヶ沢は青森湊とともに、津軽藩の財政と市場経済を支える重要な湊だった。
江戸時代は、米という封建制と貨幣経済という市民性とが、抱き合ったり争ったりしていた時代と司馬は定義している。
津軽藩は米の全収穫高から家臣の録や士庶の食料を残すと、あとは廻米として青森や鰺ヶ沢に集積させた。
津軽藩の貨幣経済(商品経済)の要衝の地鰺ヶ沢に集められた米は上方に送られ、貨幣(輸入品)になって戻って来た。
津軽は寒いので木綿ができないため、木綿が主たる輸入品であり、それに古着、塩、雑貨、時にはサツマイモも輸入された。
 
鰺ヶ沢の江戸時代の栄華がしっかり想像できた。
風呂に入ったり「北のまほろば」を読んだりしている間に夕食となった。
 
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夕食についてはメモしてあるので紹介すると、ハタハタ(北海道産)3匹の煮付けイカの煮付け(ワタ味噌で味付け)ヒラメと鯛のお造り巻貝3匹の煮付け焼肉2枚となっていた。
 
この料理をこの部屋で、アサヒ瓶生を飲みながらいただいた。
 
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夕食は僕的には凄すぎで、充分負けた、尾野旅館の完勝ですという感じだった。
気分最高のこの食事の後、実はヒト騒動が持ち上がった。
この旅からということで購入した最新式の激安デジカメの充電コードを、こともあろうに、能代のホテル・ニューグリーンに忘れてしまったのだ。
それから1時間程何回かホテル側とやりとりを繰り返して、3日後の宿泊先である、下北の田名部の「むつグリーンホテル」に郵送してもらうこととした。
従ってここからの写真十枚ほどは以前購入ていたオリンパスSP700での撮影となった。
 
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この騒ぎで少々疲れたが、旅館自体は古い建物だが落ち着いて過ごせた。
写真には写っていないが、この部屋にはもうコタツが出ていた。
9月末ということで、このあたりの朝晩の温度は10度以下となっており、この晩は寝酒を少々飲んで、毛布に包まって眠った。
 
翌日928()となった。
駅前を朝飯前に散策後、部屋で朝食。
 
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コタツも料理も、尾野旅館はどちらも暖かかった。
ビール付きで7200円支払ったが、妥当な料金だと感じた。
 
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それでは白神山地の町、舞の海とわさおの町「鰺ヶ沢」に別れを告げ、今日の旅に出発である。