黄金崎不老不死温泉の次は深浦である。
五能線の「18ウェスパ椿山駅」から車で5分のところにある温泉から深浦までは、五能線で「19艫作駅(へなしえき)」、「20横磯駅(よこいそえき)」、「21深浦駅(ふかうらえき)」となり、三つ目の駅となる。
 
ここからは、津軽人「太宰治」が、僕の旅に加わることになる。
太宰治はあまりに有名な小説家なので、彼の紹介は省略して先に進む。
 
太宰の小説「津軽」がここで問題となるが、この小説は小山書店から津軽風土記を書くよう依頼され、第2次世界大戦中の1944年(昭和19年)5月から3週間にわたって故郷へ帰り津軽半島を旅行したことを作品にしたもので、このとき太宰は35歳だった。
 
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旅行の日程は、東京発〜青森経由、蟹田泊(中村貞次郎宅)〜三厩泊〜竜飛泊〜蟹田泊(中村貞次郎宅)〜金木泊(生家)〜五所川原、木造経由、深浦泊〜鯵ヶ沢経由、五所川原泊〜小泊泊〜蟹田泊(中村宅)〜東京帰着となっていた。
 
太宰の小説「津軽」の旅では、五能線沿線の西海岸へは深浦まで来ている。
僕の「津軽街道の旅」は、司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ中の「北のまほろば」を主要な参考書としているが、もう一つの重要な参考書は、青森県生まれの高名な小説家太宰治の傑作である小説「津軽」。
小説「津軽」の旅は、太宰の生涯の中でおそらく最も思い出多い旅だったようだ。
その参考書である小説「津軽」の冒頭部を覗いてみる。
 
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、齋藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十 七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十七」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」
「そうして苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。も、これ以上は言わん。言うと気障になる。おい、おれは旅にでるよ」
 
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太宰が天才作家と言われる理由が、小説「津軽」の書き出しだけでわかる。
ちなみに僕のブログ「津軽街道をゆく(2013年の旅)」の書き出しはこんなである。
 
司馬遼太郎の街道をゆく旅を真似ての10年がかりの旅、自分の中で整理するために仮称「グレートジャーニー(街道をゆく;国内編)」と銘打った旅を計画したのは、まだ大学院生だった3年前のことである。
 
とても比較にならない比較をしてしまったが、通信制の高校の教師をしていて正解だったと確信した。小説家にはとてもなれない。
主要な参考書である「北のまほろば」の書き出しはこんなである。
 
 「まほろば」が古語であることは、いうまでもない。
 日本に稲作農業がほぼひろがったかと思われる古代、-五、六世紀ころだろうか、-大和(奈良県)を故郷にしていた人-伝説の大和武尊-が、
異郷にあって望郷の思いをこめて大和のことをそう呼んだ・・・・。
 
司馬遷に遠く及ばなかった司馬遼太郎の書き出しにも遠く及ばない。
書き出しでダメなら、それでは中身で勝負と行こう。