津軽街道をゆく旅」は去年の「オホーツク街道をゆく旅」と同じで、引き続き司馬遼太郎の名著「街道をゆく」を参考書としての旅となる。

 

 司馬遼太郎の街道をゆくシリーズで、津軽街道というネーミングの旅は無いが、青森県を旅した紀行書は「北のまほろば」というネーミングとなっている。

 

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 司馬は青森県を津軽藩と南部藩に分類して、それぞれの歴史的背景を考察しながら青森県を旅するのであるが、青森県の古代の豊かさに注目し、それを解き明かすように旅を進めて行く。

 

 現代の考古学者によって、縄文時代(それは今から1万年前から2000年前の時代のことであるが)には、津軽と南部両方を含めた青森県全体が、信じがたいほどにゆたかだったと想像されている。

 津軽だけでなく、東日本全体が、世界で最も住みやすそうな地だったと、司馬は「北のまほろば」で書いている。

 

 山や野に木の実が豊かで、三方の海の渚では魚介がとれ、森には獣が沢山いて、川ではサケ・マスが向こうの方から食べられにやってくる。

 そんな土地は、地球上にざらにはない。

 

 司馬はそんな青森県(津軽と南部と下北)の古代を「北のまほろば」(まほろば;司馬の解釈では、まろやかな盆地で、まわりがやまなみに囲まれ、物成がよく気持ちのいい野のこと。)とネーミングした。

 

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 その北のまほろばだった青森県の旅が始まるが、街道をゆくシリーズの名著「北のまほろば」では、こんな風に第1章「古代の豊かさ」の冒頭部分を始めている。

 

 「まほろば」が古語であることは、いうまでもない。

 日本に稲作農業がほぼひろがったかと思われる古代、-五、六世紀ころだろうか、-大和(奈良県)を故郷にしていた人-伝説の大和武尊-が、異郷にあって望郷の思いをこめて、大和のことをそう呼んだ。・・・・・・・・・・

 

 僕の「津軽街道の旅」は、司馬が青森県の旅を終えて、この地の古代、そして現在の青森県をも、「北のまほろば」とネーミングしたいと強く決心した具体的な状況証拠を、司馬の旅を参考にしながら、僕自身の旅も混じえて、一つ一つ発見する旅にしたいと願っている。

 

 司馬の「北のまほろば」では、五能線沿線の街では鰺ヶ沢からの記載となっている。

 

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 今回の僕の旅で、もう一つの重要な参考書とした青森県生まれの高名な小説家である太宰治の小説「津軽」では、五能線沿線の街の記載は深浦からである。

 

 従って、司馬の「北のまほろば」に本格的に触れるのは鰺ヶ沢から、太宰治の小説「津軽」に触れるのは深浦に行ってからにしたい。

 

 また今回は、実はもう一つの気軽な参考書である漫画「美味しんぼ」の、「日本全県味巡り青森編」も用意した。

 

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 この美味しんぼの主人公である海原雄山は青森県をこう言っている。

 

 「美しい国」とは何かという議論があるが、青森にその答えがある。

青森は山も海も美しい。山の幸も海の幸も美しい。

青森は伝統的な生き方を守り、地域の人々の連帯と誇りを盛り立て、自分たちの文化を豊かにしている。

これこそが「美しい国」なのだ。

 

いかにも雄山らしい言い方である。

彼の実の息子の山岡はこれに対して、青森県をこう言っている。

 

青森県は関東以西がすでに失ってしまったもの、「原日本人の文化」が残っていて、特に青森県の食文化を体験すると、文化自体が他とは決定的に違う。

 

雄山と山岡のウンチクに、なるほどとうなずけるかどうか、それはこれからの旅の中で実証されることとなる。

 

楽しみな旅の予感で、期待はますます高まっていく。