稚内では最初に、北防波堤ドーム(きたぼうはていドーム)に行った。
 

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 北防波堤ドーム(きたぼうはていドーム)は、北海道稚内市の稚内港にある大型の防波堤である。

 高さ約14メートル、長さ427メートル、古代ギリシア建築を彷彿とさせる70本のエンタシス状の柱列群が斬新な印象である。

 北海道大学を卒業して3年の26歳で、稚内築港事務所に赴任してきた北海道庁の技師土谷実の設計により、北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船(稚泊連絡船)の桟橋など港湾施設の保護および、桟橋を利用する乗客の便宜のために作られた。

 建設後、稚内駅からドームの手前まで国鉄の線路を延長し、同駅の構内仮乗降場扱いで「稚内桟橋駅」が開設され、乗客はドーム内を歩いて桟橋に待つ連絡船に乗り込んだ。

 その後、第二次世界大戦を経て終戦を迎えたことから稚泊連絡船は消滅し、これとともに稚内駅から桟橋駅に続く線路も消滅したが、防波堤としての機能は維持されており、以後も礼文島や利尻島への航路など多くの船が発着する稚内港を守り続けている。
 

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 稚泊連絡船の歴史だが、それは日本の南樺太支配時代の歴史でもある。

 1905年(明治38年)9月5日の日露講和条約により日本は北緯50度以南の樺太を領有する。

 当初、北海道から樺太への航路は小樽港と大泊(現コルサコフ)間に1905年(明治38年)8月より日本郵船により航海が行われたのが始まりである。

 その後、鉄道建設が進むにつれて北海道と樺太の交通の改善を望む声が高くなり、1923年(大正12年)5月1日、大泊出港の対馬丸から稚泊航路の営業開始となった。
 

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 稚泊連絡船は稚内~大泊 210kmを所要8〜9時間で運行する。

 稚泊連絡船の樺太側の港である大泊の気候だが、桜は6月半ばの開花、6月でも雪が降ることがある厳寒の地、連絡船には砕氷船が使われた。

 樺太には豊富な森林資源、水産資源に石炭の埋蔵量も多く、豊原(現ユジノサハリンスク)を中心都市とし樺太庁が置かれた。

 ここで、稚泊連絡船の歴史を見ると

 大正12年5月1日 関釜連絡船 壱岐丸の転船により航路開設 
 大正12年12月26日 稚内港(わっかないみなと)駅開業

 

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 昭和7年12月 新造船 宗谷丸(砕氷船)就航 (亜庭丸と2隻体制に)
 昭和11年 昭和6年から着工の北防波堤ドーム完成。
 昭和13年10月1日 稚内桟橋駅開業 (稚内港駅構内の仮乗降場扱い)
 昭和20年8月10日 青函航路に転船した亜庭丸が米軍により撃沈される。
 昭和20年8月23日 大泊港発 22:00 宗谷丸出航 (約4500名乗船)
 昭和20年8月24日 朝4時ごろ 稚内港に最終船宗谷丸到着 稚泊航路事実上休止


 参考までに大正15年8月15日の運行ダイヤを見てみると

 夏季 (4月~11月) 稚内23:00~大泊7:00 大泊22:30~稚内6:30
 冬季 (12月~3月) 稚内9:00~大泊18:00 大泊6:00~稚内15:00

 下り樺太方面の旅客のピークは3~5月、底は1月、 春は鯡漁関係者や開拓者、秋は林業関係者で賑わった。

 上り内地方面の旅客ピークは9~12月、鯡漁を終えた関係者が一喜一憂して混みあった。