磐余玉穂宮跡の次の目的地は、藤原京の宮殿があった藤原宮跡である。

 藤原京は、694年から平城京遷都が行われるまでの16年の間日本の首都となっていて、その藤原京の中心に藤原宮は位置しており、ここに持統・文武・元明三代の天皇が住まわれていた。

 藤原宮跡に行く前に、まず「奈良文化財研究所藤原宮跡資料室」に立ち寄り、藤原京と藤原宮についての展示資料を読んで大まかな知識を頭に入れた。

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 展示室のパネルで説明すると、碁盤の目状の場所に藤原京があり、その真ん中に藤原宮があった。

 藤原京は当初、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、東西1.1km、南北3.2km 程度とみられていた。

 しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は5.3km(10里)四方、少なくとも25k㎡はあり平安京(23 k㎡)や平城京(24 k㎡)をしのいで古代最大の都であったことがわかった。

 藤原宮はほぼ1km四方の広さであった。

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 周囲をおよそ5mの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。

 南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。

 塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱とそれで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ4、50cmの柱の間をうめる厚さ25cmの藤原宮の大垣と呼ばれる土壁である。

 こんな知識を頭に入れて、藤原宮跡へ向かってレンタサイクルを再び走らせた。

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 道の傍らに特別史跡藤原宮跡と書かれた標柱が立っていて、どうやらもうこの辺りは藤原宮跡内部のようである。

 そしてどうやら朱雀大路上に、僕は今立っているようである。

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 正面の赤い十数本の柱の立っている位置に、藤原宮の正面玄関である朱雀門が立っていて、その向こうに形の良い耳成山が見えていた。

 頭に入れてきた知識がしっかり役に立って少しうれしかった。

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 朱雀門から入ってしばらく歩き、反対側を見ると遙か向こうにどうやら蘇我氏の宮殿があった甘樫の丘が見えている。

 藤原宮で政治が行われていた頃は蘇我氏の政治に対する影響はほとんどなく、その代わりに藤原鎌足(中臣鎌足)の子である不比等が台頭し、藤原氏は奈良時代・平安時代と天皇家の側近として日本の政治の中心となっていく。

 天武天皇・持統天皇は大化の改新の考えを推し進め、不比等は大宝律令を作りあげて、天皇中心の律令政治が完成するのである。

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 この時代のことを考えながら、あちこちから聞こえるヒバリの声をBGMとして、爽やかな風にながされながら、広大な藤原宮跡を大極殿方向に向かって歩いていく。

 大極殿は藤原宮の中で最大の建物で、重要な政治や儀式の際に天皇の出御する建物で、正面約45m、側面約21m、基壇を含めた高さは25m程あっただろうと推定されている。

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 その大極殿の跡には巨大な赤い標柱群が立っていて、ここに大極殿があったことを示している。

 その一角に、持統天皇文武天皇藤原宮跡と大書した古い石碑が建っていた。

しばらく感慨にふけってから、この近くにある奈良文化財研究所に行った。

 ここには藤原京造営に関する出土品や貴族の屋敷の復元模型やCGによる藤原京の再現などが展示されていた。

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 その中で、片隅に展示されていた藤原京造営者である持統天皇の「春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣乾したり 天の香具山」という歌碑が、いつまでも印象に残った。

 今は5月なのに、このところ急に暑くなって来て、野外は連日最高気温30度を超えていて、まさしく夏が身近に来ている気配だった。