龍馬脱藩の道を、龍馬の話をしながら若宮ガイドは掛橋和泉邸に向かって歩いていく。

龍馬は歩いた距離が半端でなく、今日は長州にいるかと思ったら次の日には長崎にいるというような地球の歩き方をしていたので、その生涯に地球を一周するくらい歩いたのだろうと若宮ガイドは話した。

龍馬は当時とすれば大男だったので、歩幅も普通の方とは格段の差があったのではないだろうかと推測した。

急階段を上がって、掛橋和泉邸にようやく到着である。

この建物は、代々神職を勤めた子孫により守り継がれてきたが、平成10年に現在地へ移転された。

部屋をのぞくと、2枚の写真が部屋の奥の壁に掛かっていた。

右が奥村虎太郎、左が掛橋和泉である。

和泉は1836年に檮原村那須家に生まれ、同村の神職掛橋因幡の養子になり掛橋和泉と改名し、那須俊平の道場で武芸を学んだ。

1859年に檮原村の大庄屋になった吉村寅太郎と交流し、吉村の尊王思想に傾倒して1862年に吉村が脱藩すると資金援助を行った。

梼原の町を見ながら若宮ガイドの話を聞いている。

その後も坂本龍馬、沢村惣之丞、那須信吾らの脱藩者が相次ぎ、掛橋和泉は家財を売却してまで資金援助を行ない、自身も脱藩を考えたが親族に類が及ぶことを危惧して、家の裏山で27歳の若さで自殺した。

家の中に入っての説明となったが、いろんな人が掛橋邸を見にきて、若宮ガイドも「ビビる大木」のガイドをしたことがあるという。

「ビビる大木」はお笑いタレントだが歴史好きで、特に幕末時代の史実に詳しい方で、この囲炉裏端に上がって若宮ガイドと話し込まれた。

囲炉裏部屋の隣のこの「奥の間」は天井が低く、この部屋から梯子を上がると2階は「姫隠しの間」と言われる隠し部屋となっていて、非常時には2425名くらい入れる。

部屋から庭に下りると、いよいよ梼原の名の由来となった梼の木との対面である。

若宮ガイドも説明してくれたが、開拓の手が現在の中心地に延びてきた際にこの地に「梼の木」が生えていたので、「梼の木のある原っぱ」という地名が誕生した。

司馬さんもこの説明と同様の解釈をして、柞と書けばいいところを誤って梼としたに違いないと梼原街道に記している。