高杉晋作の像を見終えてから、長府毛利家の墓所でも見て帰ろうと思って歩いていたら、この寺で清掃ボランティアをされているお年寄りの一団に出会った。

 

 このお年寄りたちとしばらく、夏みかんのような木(この木は夏みかんの木ではない。正確な名前は聞いたが既に忘れている。)の前で、司馬さんや長州藩についての話題でしばらく盛り上がった。

 ここは仏殿の横であるが、清掃ボランティアの方々は仏殿を4回程一般公開した時の説明員をされていたという。

 先に歩いていくボランティアの方々の後ろから歩いていく。

相手をしてくれている方が、「この墓は細川の墓で、この向こうに僕の知り合いの三吉慎蔵の墓がある」と教えてくれた。

 実は三吉慎蔵がどういう人間か全く知らなかったので彼に調子だけ合わせていたが、妙に気になったので三吉慎蔵の墓まで行くことにした。

 このユーモアたっぷりの方はこれから33か所の墓の清掃ボランティアをするということで、ここで彼と別れた。

 少し歩いて、三吉慎蔵の墓のある場所にこんな説明看板が立っていたので、ようやく三吉慎蔵が何者か分かった。

 長州藩士三吉慎蔵は坂本龍馬の大親友だったのである。

墓所位置図がなければ、すぐにはどの墓が三吉慎蔵の墓かわからない。

この白⇓の墓が、三吉慎蔵の墓である。

1831年、三吉慎蔵は長府藩今枝流剣術師範小坂土佐九郎の次男として生まれ、その後長府藩士三吉十蔵の養子となり、藩主毛利元周の近習扈従役として江戸に随従した。

1866年、長府藩士印藤肇の仲介で坂本龍馬の知遇を得、長府藩より京都の情勢を探るよう命じられ、龍馬と共に下関を出発して伏見寺田屋に入り、ここで寺田屋事件が起こった。

龍馬や三吉慎蔵らは深夜の2時に幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれた。

お龍は風呂から裸のまま飛び出し、裏階段を2階へ駆け上がって、龍馬らに危機を知らせた。

龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は手槍を用いて防戦した。

捕り方2名を射殺、数名を殺傷したが劣勢となり、裏木戸から脱出して材木屋に隠れた。

三吉は伏見薩摩藩邸に救援を求め、龍馬は九死に一生を得ることができた。

有名な話なので、このくらいにしておく。

1867年、龍馬は長崎から土佐にむかう途中で下関に寄港し、廻船問屋伊藤家に妻のお龍を預け、朋友慎蔵にお龍を託した。

龍馬の死後、慎蔵は龍馬との約束通りにお龍と君枝の姉妹を長府の自宅に引き取って3ヶ月間面倒を見、翌18683月にはお龍を高知の坂本家に送り届けた。