ある日、発表会で娘と連弾を弾く為に、レッスンの日にピアノの先生の前でわたしも一緒に合わせた。
その時に言い知れぬ恐怖と焦り、脈拍の上昇が出てきて、明確に思い出し、理解することになった。
娘の先生はとても優しくて、いつものびのびと娘を指導してくださっている。
先生に対して緊張する理由が全く無かったので、シチュエーションの問題だと思った。
その時の自分の変化がPTSDの、場面の再演であることを自覚した。
自分の身体の血流、脳内物質や各種ホルモンの移動が子どもの頃の自分と同じ体液の状態であることも悟った。
子どもの頃…わたしはピアノのレッスンを、毎回こんな気持ちで受けていたのかと思い知る。
これはまるで…恐慌状態だ。
恐ろしい…と思った。
それが毎週、「普通」だったのか。
この苦痛が日常だったのか。
わたしの恩師がPTSD級に厳しかったと言いたい訳じゃない。
ピアノを習う随分前からすでに、わたしの状態は形成されていたからだ。
その状態は、子どもの頃は1日に何度も訪れていたからだ。
日常的にわたしはその状態だった。
大人になってからもそうだった。
恐怖で、思考と行動に抑制と停止がかかる。
それを抱えながら生きてきた。
ここ数年くらい、その状態が日常であったことを忘れていた。
…よく死ななかったよな。
これは…そりゃ発達障害にも精神疾患にも、「見える」よな。
人間は不快、不安と恐怖によって判断力を奪われる。
時に本能すら狂う。
それは人間が動物だからなのだろう。
つまり意図的に不安と恐怖に晒した状態にすれば、この世にまともな人間は居なくなる。
それを…無意識にやる人が子どもの心を壊すし、意識的にやる指導者が質の悪い人身掌握をする訳だ。
…なるほど。
なーんだ、そういうことか。
そうだったのか。
わたしがおかしいのも、世の中の人たちがおかしいのも、当たり前だったんだ。
誰かに怒られる!
見捨てられる!
という恐怖が精神障害を作ることもあるし、
逆に、絶対に怒られない、本能の赴くままの暴走することを許す環境が、精神障害を育てることもあるんだろうな。
子どもには「こういう人間になって欲しい」というコントロールを手離して、
子どもの行動があまりにも酷い時には、
見捨てる、突き放すことも大事なのかも知れない。
全ての人には見捨てられる経験が必要なのかも知れない。
見捨てて貰った方が楽になることも多々あるんだろうなあ。