昨年春の記事。
落ち着いたら色んなことが見えて来たかも知れない。
自分が陥っている病理を静かに自覚する。
本当に心から、否、魂から腑に落ちるほど、なるほど、そうだったのか!と「勉強」しないと、
同じような出来事は永遠に何度も繰り返される。
運が悪いとか、
いい出会いがないとか、
いつも職場環境に恵まれないとか、
人に騙されるとか、
いいように利用されるとか、
繰り返してしまう理由はそれで。
どうして誰も分かってくれないの?
と他人の行動に問いを投げかけているうちは、
ずっと同じタイプの不運が続くんだ。
ただ運が悪かったと思う方がいいことも沢山あるけれど、運が悪かった理由は、自分の中にある。
自分の中にしか、ない。
運が悪かったというのは、多分「自分のコンディションが悪かった」ということなのだろう。
運も縁も、コンディション、自分の状態が運んでくるんだ。
自分の状態によって、行動の質が変わる。
自分の行動によって、出来事は変わる。
行動の大半は、意識的なものより、無意識のものが多いんだと思う。
意識的に何をしたかとか他人に何かをしてあげたとか、そういうことよりも、コンディションによる結果の方が余程大きなウエイトを占めている。
普段自分がどんな表情をしているか。
どんな姿勢で歩いているか。
どんな言葉を使っているか。
どんな思考回路でものを考えているか。
それは、癖になっていて、気がつかないことが多い。
そういう土台の上に、意識的な行動が積み重ねられる。
基礎がキチンとしていないと、出来上がる人としてのナリは、ヘンテコな建物になったり、震度3程度の地震で崩れてしまう建物になるんだろう。
良いコンディションの時に積み重ねられた行動だけが自分の徳(=他人への思いやり、施し、誠実さ、謙虚さ、=幸運の種)になる。
家計や金銭管理だけでなく、なるべく徳もプラスを維持した方がいいんだね。
維持しないと損するんだね。
不幸っていうのは、徳の借金だから。
徳を枯渇させてしまった時に、借金の取り立てのように、不運が来る。
常に運を落とさずにいい感じ、をキープしたいものだ。
コンディションを調えることから逃げて、自分は悪くないから不機嫌なまま変わらずにいようと意固地になって、思考回路や行動スタイルの癖を正さずに、そのままでいたら、どんどん不運に利子がつく。
より、面倒くさい目に遭ったり、面倒臭い人と出会ったりするんだ。
面倒臭い出来事は、別に神様の意地悪ではないし、面倒臭い人も、別に悪気のある人ではない。
酷い人に見えても、もしそれが社会のルールや法律に逸脱するような人であったとしても。
相手が悪魔にしか見えない時があっても。
その人はただの、自分に気付きを与えてくれるだけの役者。
生まれた時からの悪人は居ないと思う。
人として生まれて来た只の、元、赤ちゃんだ。
育ち方や人生経験が自分とあまりにも違う人であっても、気付きを促してくれる大事な人だ。
同じ出来事に見舞われても、不幸を感じる人と別にへっちゃらの人がいるね。
土台を固めて耐震強度を強くしないとな。
土台になる、親からの影響とか、環境とか、生まれ持ってのどうしようもないハンデがあったとしたら、
自分はそれに耐えうるのだと、マイナスからのスタートであっても、プラスに持っていける筈だと、神に選ばれたと思って生きればいい。
無意識の領域を修正していくことの困難さは、困難さを持っている人間にしか分からない。
自分がまだ辛いうちは、生まれ持って幸運な人からの無意識マウントをスルーしながら、気高く生きればいいと思う。
仕方がないんだよ、みんな知らないだけなんだからさ。
幸福な人を見て拗ねなくていいよ。
無邪気で残酷な人に、怒らないでいいよ。