OSHO禅タロットカードより



雲のスート5

COMPARISON(比較)




竹は松よりも美しいとか、松は竹よりも貴重だとか、一体誰があなたに教えたのでしょう?  果たして、松はこの竹のように自分も中が空っぽな幹がほしいと願っているのでしょうか? その一方で竹は、松のことを、人びとからものごとのランク付けの比喩(松竹梅)に使われ、最上級だと言われていることに対して、嫉妬するでしょうか? 二本の木が自分たちを比べ合っているという考え方そのものがばかげていますが、私たち人間にはこの習性を断ち切るのがとても難しいようです。現実を直視しましょう。あなたより美しい人、 才能のある人、強い人、頭のいい人、あるいは明らかに幸せそうな人はつねにいます。そして逆に、こうしたすべての意味であなたに及ばない人も常にいます。自分とは誰なのかを見いだす道 は、他人と自分を比較することで得られるのではなく、最良の方法で自らの潜在能力を自分が実現させているかどうか、それを見ることによって得られます。


比較は劣等感を、優越感をもたらす。比較しなければ、 すべての劣等感、すべての優越感は消える。その時こそ、あなたは在る。ただそこに在る。小さな潅木、あるいは大きく高い木——そんなことは関係ない。あなたはあなた自身だ。あなたは必要とされている。草の葉は、も っとも大きな星と同じように必要とされている。その草の葉がなければ、神は在るべき自分より少なくなってしまう。 

郭公(カッコウ) のこの声は、どのようなブッダとも同じくらい必要とされているのだ。もしこの郭公が消えたら、世界はより少なくなる、豊かさがより少なくなってしまう。 

ちょっとまわりを見てみるがいい。すべてが必要とされていて、あらゆるものが互いにぴったり合っている。それ は有機的なひとつのまとまりだ。高いものは誰もいないし、 低いものも誰もいない。優れているものは誰もいないし、 劣っているものも誰もいない。誰もが比較できないほどユ ニークだ。




上のメッセージは、カードの添付文書のメッセージを出来るだけ原文に沿って、難解な部分を私りの独自の解釈でまとめたものです



鶏頭となるも牛後と為る勿れ。

そんなことわざもありますが。

本当は差別主義者の癖に、自分より下を見て安心する為に医療、福祉、教育、保育などの仕事をしている(昔の自分に似た)人間が本当に嫌いです。近寄らないでください。さもなくば、あなたの劣等感を日の当たる場所に曝け出してあげましょう。




はい、私怨です。

(落ち着け…落ち着くんだ自分…)


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