2020.10.17の記事です。





精神疾患や発達障害の当事者であったり、
それに寄り添おうとする福祉の職員であったり、



そんな人たちの口からダラダラと語られる、
精神疾患の定義だったり、啓蒙だったり苦労話、あるじゃないですか。



あー辛いよ辛いよ、
大変だよ、
大変さを、
理解してよ、


だとか。


当事者の大変さを、
理解してあげようよ!


だとか。




そんなのを聞くたびに、
こっそり思う。


ふぅーーーーん。


苦しみに寄り添うって、
そんなに、善行なのかな。
…てね。



私はちっともそうは思わない。



うん、いいよ、いいよ。
いくらでも聞くよ。
…って。



愚痴や嘆きに、一緒に水を与えて育てることが、
良いことだとは思えない。


その人と一緒に
育ててしまったそれは、
その人の背丈を追い越し、
どんどんその人を蝕むよ。


やがてどうやったって、
越えられやしない壁になるよ。


他人からの優しさ無しに生きられない人間になる。
常に、優しさを、頂戴、頂戴、と言う人になる。



労って貰えること、
理解して貰えること、
それらを当然の権利だと思ってしまった瞬間に、
どんどんその人は他人の優しさに依存する。
一人で立つことが、もう不可能になる。



常にいつでも自分の苦しみを理解して貰えることが当たり前になれば、



自分の苦しさや可哀想な様を、
アピールして、
相手から優しさを貪る。



相手に対する配慮がどんどん出来なくなるし、
相手の氣持ちや都合も考えず、
知らずに相手に負担をかけるならば、
その人に業(悪因)が生まれる。



無邪気に他人に迷惑をかけ続けるような人に、
幸せの種を育てることが出来るだろうか。



誰かを犠牲にして自分が楽になるような、
そんな行い(原因)をする人に、
果たして明るい未来(結果)は待っているのだろうか。



自業自得。
悪因悪果。


…ってね。
言うじゃない?



最近、元当事者である私のスタンスが変わりつつある。



以前は、当事者の痛みにとことん寄り添っていた。
時に一緒に悲しんだし、一緒に怒った。
それはきっと、
当事者の辛さや苦しみが、
まだどこか「自分事」だったんだろう。



変わったんだな、私。
相変わらず肝心なとこ抜けてる残念な人だけど。
落ち込むことも沢山あるけれど。
相変わらず対人関係下手だし、
失言もするし失敗もするし、
ノリ悪いし、気後れするし、
挙動不審だけど。



ただ、元々そういう人間であったってだけで。



もう、私はメンヘラじゃないんだな。


だから、
心の快復に必要なことを多分、
分かっている。


他人からの優しさは時に毒になる。
癒しには必要なこともあるけど、快復には不要。
むしろ過大になるとダメになる。


一番必要なのは、自分自身で、自分を理解し、許し、癒す力だよ。
それを、育てて行かなくちゃならないんだ。
他人から、貰ってる場合じゃないの。



でも、まあ。


皆が皆、


快復したい当事者な訳じゃないものね?



ぶっちゃけ支援者も、みんながみんな当事者を快復させたい訳じゃないものね?



可哀想な人のままでいて貰わないと相手に、優越感抱けないしね。
尽くせる相手が居ないと禁断症状起きるかもだしね。
それだけ、自分が空っぽだから。



知ってる?
優しさってね、受け取る方だけじゃない。
与える方も、依存するんだよ。
相手に尽くしてる時…ドーパミンでも出てんのかな。



快楽に溺れて共依存してる場合じゃないでしょーよ。



その人の快復や自立を諦めていない、
私のような人間が、
特殊なんだろうか。



うむ。
理解されないことに慣れすぎた。



どうやって、この氣持ちを、
周りに伝えて、
理解して貰おうかなあ~


そのプロセスとしての、言語化。


…福祉って、時に、
とても罪深い。