2020.07.11  わたしが福祉の仕事で自分なりのスタイルを築いて来た経緯です。




私は心が狭くて、福祉の仕事をしている時に、利用者さんに対して嫌悪感やイライラを感じてしまう瞬間がたまにある。


それは、人間であれば当たり前の感情ではあるが…


いや、今までは、当たり前であると思ってたんですけど?!


私の職場にいる人たちは、たとえ僅かでもそう思うことがあったとしても、決して態度には出さない。


…な、なんだよぉ。
みんななんかすげぇよぉ。


福祉の人間の癖にいちいちイライラしてるの、わたしだけぇ?
ちぇ。


それは今共に働いている人たちだけでなく、過去の同僚や先輩も、全員、そうだった。


常に、神対応。
慈愛に満ちている。


そのキャパシティとプロ意識をすごいなと尊敬するが…それは、それ。


またそれとは別の話で…


私は、いつもそれに対して居心地の悪さと葛藤を抱えている。



たとえ疾患を持っているといわれている人が相手であろうと、私は相手に嘘をつきたくない。
思っていないことを口にしたくない。
そう思っているからだ。


言葉を選び過ぎることは、
その人を護り過ぎている、その人を一切大人扱いしていない、その人を馬鹿にしている、ということなのではないか、と。


セオリーや法則、決まり、これをしたほうがいい、これはしないほうがいい、これは言っては駄目…


型にはまった対応や会話しかしないなら、福祉なんてAIがやりゃいいんじゃないでしょうか。


人間は人間に接することでしか変われないと思う。


正しさなんて分からない。
裏目に出るかも知れない。
それでも、相手の心に響くのは、真心のみだと思っている。


支援者の感情を解脱させた小手先の対応って、
本音を語らずセールストークで客をやり込めて落とす(買わせる)セールスマンと何が違うんだろうかと思ってしまっている。


相手をこちらが望ましい状態に操縦しているだけじゃないのか?と、


ただし営業の仕事をしていた経験を思い出すと、セールスマンは売れてる人ほど、自分を偽らず、お客様に本音を語り、素で喋っていた気がする。


つまり、セールストークの上手いだけのセールスマンは良くて二流、大概三流。


ということは…もしかしたら福祉も?
小手先のルールに則った会話や対話しかしないのは、二流、三流ってことなのかな?と。


そしてよく思うのは
癒されることと変わることは別だということ。
むしろ、それらは真逆のベクトルなのかも知れないということ。


人はある程度癒されたら、自分自身が、「他人から癒して貰わなくても済む人間」に少しずつ変わっていく必要がある気がする。


その人のそのまままを受け入れてあげることは、その人を癒すことは出来るかも知れないけれども、


一方で、その人が自分自身に疑問を持ったり、変わったりするチャンスを、その人から取り上げることなんだ。


人は、少しも傷付くことが無ければ、自分のやり方の不味さに気付くことは出来ない。


傷付くことで気付く。
そうして、自分自身を築くことが出来るんだと思う。


思い切って過激なことを言えば。


愛想笑い、我慢大会のその先は。
その人を歩く公害製造機に、どんどん成長させる。


神対応は、
相手に
「自分は神なんだ」
という勘違いを与える。



神対応をされると毎回その対応をしてもらうのが当たり前で、普通になる。
その人が喜ぶのは、初回だけ。
そこに感謝も何も存在しない。


それどころか、状況の変化や周囲のほかの人たちとの、兼ね合いのなかで、


たまたま神対応をしてもらえなかったときに、神対応してくれなかった相手を恨む。


常に神対応を相手に求める人(神様)が生まれる。


神様は人として生きられない。
誰かから優しさや時間とエネルギーを搾取し続けないと生きていけない。


その人を一人で生きていけなくしているのは、周囲なのかも知れない。


これは、差別や権利の主張や疾病利得とも絡んでいて、難しい問題。



その人の尊厳を大事にすることと、常に神対応をすることは、イコールではないような気がするのだ。