40年ぶり。描写は悲惨で重い。

レイテ島での兵役、捕虜経験を経て、戦後1946年『俘虜記』に続き、1952年本作を執筆。

野戦病院から追い出され、極限状態にある敗残兵(田村一等兵)の心理を描く。

 

人を食う

田村は、自分の血を吸った蛭は躊躇なく食べたが、屍体に目が向いても人食という発想には至らない。逃げ惑う日本兵を「猿」と呼び、殺して食べる男もいる。

「食べてもいいよ」と最期に残して息を引き取った、狂った将校。屍体は物体。田村は右手の剣で刺そうとするが、左手が止める。

田村は何故人食しなかったのか?

 

左手が右手を制止する。「汝の右手がなすことを、左手をして知らしむる勿れ」と声がする。この声の主こそが神。神が人食をさせなかったのだ。

そして田村の後頭部を打って気絶させたのも神。そのお陰で田村は米軍の捕虜となれた。

 

死を覚悟し、現実味を帯びてきた頃、死んだとしても、身体の2/3を占める水は川に流れ、永遠に生きるだろうという幻想を抱く。この幻想は生きる希望でもある。

 

野火

直接的にはフィリピン人が焚く火だが、田村はそれを怖れる。自分を追い詰めるものだから。一方、「私もまた私の心に火を持っていた」。自分の心の火とは、生きるための執念。

 

文学でもあり、戦争の記録でもあると思った。

2024年の今、戦争を起こしている人に読ませたい。