秩父宮ラグビー場 消滅の危機 | 17(ジュウナナ)のブログ

秩父宮ラグビー場 消滅の危機

     

日本ラグビーの聖地である

『秩父宮ラグビー場』が今、

消滅の危機に瀕しています。 

   

その名から「埼玉県の秩父にある」と

勘違いしている人も多いのですが、

東京メトロ銀座線の外苑前駅すぐの

「都心のど真ん中」にあります。  

 

その成り立ちを振り返ってみると、

(鹿島建設HP、京大ラグビー100周年誌デジタルコンテンツ、J SPORTS番組「ラグビー 一人語り」から引用) 

 

戦前、関東の主なラグビーの試合が行われていた神宮競技場は、

戦後、進駐軍に接収されて、

日本国民が自由に使うことはできなくなりました。 

 

1947年初め、戦後1年ちょっとしか経っていない、

まだ焼け野原の東京で、ラグビー協会の有志が集まり、

「若い後輩たちにラグビーをさせてあげたい」

「平和の象徴として、ラグビー専用競技場をつくろう」

と誓い合いました。  

 

その中に当時は稀有な、

自動車を自由に使える新聞記者がいて、

彼らが中心となり探し回って見つけた

都内10数カ所の候補地の1つが、

進駐軍の駐車場となっていた女子学習院の跡地でした。

 

しかし、ラグビー協会にはお金がありませんでした。

工事代金150万円(現在の1億円ほど)の

手付金30万円を払うことができません。 

 

当時、人々は食うや食わずで生活に困窮しており、

預金封鎖もされて、現金調達が難しかった。

そんな中、慶應、早稲田、明治、東大、立教の5大学OBたちが、

個人の貴金属、時計、カメラ、自宅の絨毯など、

金目のものを売りさばいてお金をつくり、

関東協会の理事長だった香山蕃が

自分の戦災保険金のすべて(5万円)を出し、

尊い結晶である浄財30万円が

手付金として鹿島組(現・鹿島建設)に払われました。 

 

8月頃から始まった工事には、

学生ラガーマンも勤労奉仕をして、

急ピッチで建設が進められました。

 

同年9月にラグビー協会総裁になられた秩父宮殿下が、

10月上旬の雨が降る中、

ご病身で静養されていた御殿場から工事現場を訪れて、

鹿島組の関係者に

「ラグビー協会は貧乏だから、よろしく頼む」と頭を下げられました。 

そして、同年11月、

「東京ラグビー競技場」は完成しました。

 

その後、秩父宮殿下が逝去され、

ラグビー普及へのご厚意に感謝をして、

『秩父宮ラグビー場』に改称されて、今に至ります。 

  

 

1945年終戦の後、

日本で最初に行われた公式のスポーツ試合は、ラグビーでした。

 

8月15日の終戦宣言から、

わずか1ヶ月後の9月23日、

食うや食わずで困窮していた時代に、

ユニフォームの生地、スパイクの革などの素材をかき集めて、つくり、

京大農学部のグラウンドで開催されました。

 

「何の告知もしていないのに3千人の観客が集まり、

 自由と平和が来たという人々の喜びが雪解けの水のように奔流した」

と当時の新聞記者が書き残しています。

 

また、8月に原爆が落ちた広島で、

その年の12月に最初に行われたスポーツ試合もラグビーでした。 

    

 平和と自由とラグビー。

  

このような物語を持つラグビーの聖地が取り壊され、

4年後、全天候対応の人工芝のドーム型施設に

建て替えられる予定です。  

 

近くにある新国立競技場の毎年の赤字、

リーグワンの観客数の減少、

人工芝の技術進化など、

複合的で合理的な理由での決定なのでしょう。

  

世界ラグビー憲章には、

ラグビーが持つ人間形成に役立つ5つのコアバリューとして

「品位・情熱・結束・規律・尊重」が示されています。 

   

元気と自信をなくしている今の日本には、

ラグビーをする人が、

ラグビーを応援する人が、

そして、良いラグビー場が必要です。    

 

30年ぶりに聖地に立った日は、神々しい光が射していました。

こんな日のハイパントのボールは、光に入って束の間、消えます。

ここをつくった先人たちの想いは、新施設の関係者にも受け継がれて、

消えないようにと願っています。