【テーマ・おんがく】


ひとつのフレーズを
繰り返し練習する

それはたとえば
空手の型のようです


ソナタのなかの提示部から
第一主題を抜き出して
さらに個々のフレーズ分ける

フレーズのなかの
一音一音のつながりを取り出して
たとえば一音目と次の音が
美しくつながるときの手首と指の
角度や力加減を探る

ド・ラ~
ド・ラー

ドッ・ラー
ド~・ラ~

いったい何の曲の練習か
ときにわからなくなる

それくらいにバラバラに
分解して型に嵌める
もっとも美しい型を探る

次に個々のフレーズをつなぐ

型を並べ型をつなぎ
もっとも美しい紡ぎかたを探る

型が決まるまでは
情感は排除する
ひたすらに繰り返し
考えなくても同じことが
出来るようになったとき

はじめて旋律が見えてくる

第一主題が聴こえてくる


第二主題を抜き出して
さらに個々のフレーズに分ける

情感を排除して
型を探り繰り返す

なにも考えなくても
指が動くようになったとき
第二主題が聴こえてくる

第一主題と第二主題をつなぐ

つなぎ目にある休符が
とんでもなく大きな役割を

担っていることを知る

休符の休みかたを探る

もっとも美しい休みかたを探る
そしてそれを繰り返し

なにも考えなくても休めたとき


実はすべてがつながっていることを知る


そのとき溢れる情感と光景
こんな風に弾きたいという希望

これを知るために
バラバラに練習していたのだ

これを知るために
美しい型を探っていたのだ



なんて…
そんな練習ができるよう

頑張りたいと思います音譜




【テーマ・りか】


たたみ一畳ほどの
我が家のベランダは
午前中だけ陽が当たります

北海道もそろそろ
暖かなよい季節になってきましたが
夜や天候のよくない日は
まだまだ寒いです

植物の発芽に必要なのは
空気と水であると
近頃娘が学校で勉強したばかり

発芽には日光は重要ではないんですね

発芽に必要なエネルギーは
種子が自分で持っているのです
これはすごいことですね


昨年のあさがおが遺した種子の
およそ半量をこの度植えました

ベランダに並べた鉢に直接と
おなじみの牛乳パックの鉢に
二箇所に分けて植えました

自生のイメージから
あらかじめ育つ土のところに
植えたい気持ちがあり
はじめは鉢に直接植えたのですが

申し上げたとおり
夜は非常に寒いのです

発芽に適した温度というのは
娘の理科の教科書にはありませんでしたが
わたしの記憶のなかでは温度も
大事な条件であるような気がして

あとから牛乳パックの鉢にも
いくつかの種子を植え直しました

そして夜間は屋内の
暖かい場所に移しておきました

これがあさがおにとって
余計なお世話にならなければいいなぁ
と半ば不安もありました



種子の半量だけを先に植えたことも
温度管理をするよう努めたことも
みんなわたしの不安がさせたことです

芽吹かない未来を
恐れた結果の行いでした

そして



夜間暖かい場所で過ごした
牛乳パックのなかの種子が
先陣きって芽を出しました

極めて薄いみどりの
みずみずしい葉っぱの赤ちゃん

ここのところ
午前中は曇りばかりで
暖まらなかった
たたみ一畳ほどの
我が家のベランダは

今朝はまぶしい朝日に恵まれました

まるで
今日からはさんさんと
お日さまのひかりを浴びなさいと
言われているようでした

不安に曇った
わたしのこころにも

一筋のひかりが
差し込みました


発芽のエネルギーを秘めた
のこり半量の種子のつぶたち

待たせてしまってごめんね








【テーマ・しゃかい】


胎内記憶というのは
生後2歳から3歳くらいまでは
個人の記憶に残っていて
おおむね4歳くらいには
失われるというのが定説のようです

わたしも母の胎内にいた記憶は
どうやっても発掘することは
できないように思います

完全な忘却であるのか
それとも思い出す術を失ったのか

いずれにしても
いま現在のわたしが記憶であると
認識しているかたちでは
逆立ちしても復元することはできません


太古のむかし
地球を覆っていた環境を
わたしたちの誰も
思い出すことはできません

けれどもわたしたちは
熱心な研究者の
数世紀にわたる地道な努力のおかげで
太古のむかしの環境を
自由に想像する術を持っています

息子が夢中で眺めている
恐竜の図鑑のなかに

娘が不思議そうに眺める
植物の化石の画像のなかに

個人の記憶に残っているはずもない
太古から続く記憶の堆積を
垣間見ることができるのです


それを思えば
個人の胎内記憶など
かなり直近の記憶であり
忘れているとは
思いたくありません

一説によれば
人間の脳が記憶できる情報量には
一定の限界があるということですが

それで説明のつく事柄とは
ほとんどが人間の忘れっぽさを
言い訳するものばかりです

胎内記憶は
わたしたちが生き物として
活動をはじめてときには
当たり前に残っていて

やがて生き物としてでなく
個人を意識したときに

記憶のスケールが狭い方へ変化して
チャンネルが合わなくなるために
忘れたように思うだけのような
気がしています

実際わたしたちは
タイムマシンでもなければ
絶滅したという恐竜を
個人の目て確認することは
できないはずなのに

遺された痕跡をたよりに
調べられ描かれた図鑑のなかに
失われたといわれる情景を
思い出すことができています

個人のスケールでは
不可能な記憶の復元を
別のチャンネルでは
信じることができるのですね

図鑑を眺める子どもたちの
キラキラした表情は
わたしの勝手な仮説を
わざわざ証明することの
馬鹿馬鹿しさを
教えてくれている気がします

信じればそれは
ひとつの真実だということです



そこで胎内記憶ですが

わたしは娘が2歳くらいのころ
ほんとうに何の気なしに
「ママのおなかで何してたの?」
と尋ねたことがあります

娘のこたえは

「お風呂に入ってたの」


もしもそのとき
わたしに娘の胎内記憶を
きいてみたいという
確かな目的があったなら

たいそう感慨深く
たいそう感激したことでしょう

けれども実際のわたしは
人間の記憶がいかなるものか
まったく何の意識もせず

まして自分の記憶すら
混乱と抑圧に虐げておきながら
それに気づこうともせず

ただ何気なく無意識のまま
幼い我が子に疑問をぶつけて
いただけでしたから

背筋が凍るほど驚愕しました


そのときのことを
ふと思いだし先日
同じ質問を娘にしてみましたが

そんなの覚えてないよ

って言われました


胎内記憶というのは
生後2歳から3歳くらいまでは
個人の記憶に残っていて
おおむね4歳くらいには
失われるというのが定説のようです

だから当たり前のことなんです

けれども
わたしは2歳の娘に尋ねたとき
あのときほんの一瞬だけ
記憶のスケールが切り替わり

定説では失われたはずの
大切な記憶を思い出したような気がします


記憶というのは
本来決して消えゆくものでなく
次元を超えて堆積してゆくもののように
思います

ふとこころだけが
別の次元に移動したとき
わたしたちは
忘れたと思っていたものに
触れることができるのかもしれません


こころだけが移動する
それって夢のことでも
あるのかもしれません