【テーマ・りか】


すっかり夏らしくなり
朝のベランダは別世界のようです。

肌寒かった時期に比べ
わたしも幾分か安心して
あさがおの姿をみることができます。



ほころびかけたつぼみがひとつ。

昨年はたしか
ねじりはちまきのように
硬く結んだつぼみが
ある朝ふわりと開いたのですが

今年の第一号は
すでに花びらを緩めて
開くのが待ちきれない様子です。

がくの色が緑のものと
紫がかったものの二種類あります。

葉もつるもうぶ毛に包まれて
若さを感じます。




わたしの手のひらと同じくらいの
大きな葉を何枚もつけた株があります。

昨年は大きくても
息子の手のひらくらいの大きさでした。

あさがおの葉がこんなに
大きくなるとは知りませんでした。



こうやってわたしは
目の前の唯一のあさがおを前に
昨年と比べてどうだとか
一般と比べてどうだとか
どうしたって考えてしまいます。

それはわたしのなかに
記憶や経験や知識があるからで

そういったものと
目の前のあさがおを対比させることで
新たな発見をしたり
喜びや期待を膨らませたり
目の前のあさがおをより際立った存在に
することができます。

けれども一方で
実態のない記憶や知識を現物に対比させることは
比較が生む不安に気づくことでもあります。

主観がもとになった記憶や経験は
目の前の現実を客観することを
いとも簡単にやめさせることができて

未知の行く末を案じるに十分な
不安を胸に掻き立てます。

平均や標準や常識と言われるものと
無意識に比較することは
わたしたちが目の前のことがらを
より客観的にとらえるための
ひとつの方法でありながら

実際は比較の生む差違や分別に
恐れや不安を抱えるという副作用に
悩まされ苦しむことも多いです。

おしゃべりが遅いとか
あんよが遅いとか
子育てを振り返れば
そんな経験ばかりです。


わたしたちは
不安にかられると
ますます情報を欲しがり
目の前の現実と類似したものを求め
差違の少ない事例と出会うことで
安心しようとする傾向があると思います。

その安心が迷ったこころを引き戻し
目の前のあさがおに戻ってくるなら
それはそれで有意義ですが

そもそも周辺事情と比較することなく
目の前のあさがおだけに集中していたら
不安に惑わされることもなかったわけです。


子どもの成長を見守る上では
主観と客観のバランスを保つことは
容易なことではありませんし

周りとの同調なしには
とても子育てなどできませんが

客観的判断を求めて集めた情報が
逆に主観の押し付けに転じてしまわないよう
常に目の前のことがらに集中する修練を
おとなはしなければならないような
気がしています。


去年と比べてつぼみがどうだとか
去年と比べて葉っぱがどうだとか

あれこれ考えてみたところで
わたしが出来ることは
毎朝気温に合わせて水やったり
つるが倒れないよう支えたり

あさがおが生きるお手伝いに過ぎないのですから。





【テーマ・ずこう】


わたしの場合
みる夢にいくつかのパターンがあります。

朝目覚めて夢を反芻するとき
はたと気づくときと
夢をみている最中にすでに
パターンを分類しているときがありますが

今朝の夢は
目が覚めてから
そういえば今日は色のある夢だったな
と気がつきました。

わりと悪夢で
登場人物がリアルでした。

現実の風景に近い夢は
色のある夢であることが多いです。

夢には実体がありませんから
色をつけているのは自分の意識ということになりますので
ふだん現実で見慣れているものは
当たり前に色をつけてしまうんでしょうね。

子どものころ
学校の授業で絵を描くとき
何色の絵の具で色をつけるか
決めあぐねた挙げ句
マックロに塗りつぶしてしまって
先生のひんしゅくをかったことがあります。

わたしは
夢のなかならあんなに自然に
色をつけることができるのに

いざ
自分で色を選んで絵を描くとなると
ぜんぜんだめなんですね。

作文のはなしでも触れましたが
わたしは絵にしろ作文にしろ
他人に見られるのが
本当にいやだったようです。

他人の評価を気にする子どもだったんですね。
もちろん無自覚でしたけれども。





夢にいろが
あるとみるかないとみるか

それはこころの決めることです。

なんだか水墨画のようですね。


色のない夢について
思うところがあるのですが
それはまた別の機会に。