【テーマ・ほけんたいいく】


大切なひとの
最期を予期させる場において
どうにもできない気持ちを
しかるべき場所に
落ち着かせてくれるのは

子どもたちでした。


「死ぬときってどんな気持ちなんだろう?」

娘が言います。

するとあんなに
死について話すことを
怖がっていた息子が

「ぼくもそれ考える。」

と言います。

それはママにも
そのときにならないと
わからないことだよ。

でも
そのときのことを
怖がらずに考えるのは
大切なことだと思うよ。

すると娘が言います。

「ママが先に死んで
そのあと私が死ぬとき
迎えに来てね。
階段降りて迎えに来てね。」

いいよ、行くよ。
もちろん
どこにいても
迎えに行くよ。

死ぬのは辛くて悲しいけれど
生まれた順番に死んでいくのが
幸せなことだと聞いたことがあるよ。

「子どもが親より先に死んだら
そんなのダメじゃん。」



わたしたちは
ときおりこうして
死ぬことについて
はなしをしながら

もしかしたら
大切なひとを
見送りながら

そのときのことを
そのときがくるまで

考え続けてゆくのでしょう。



胸が張り裂けそうです。







【テーマ・しゃかい】


ビデオカメラが普及してから
生活に動画が浸透していますので
動く自分の姿を客観的に見物する機会は
一昔前に比べたら格段に増えました。

わたしの子どものころは
画面に映った自分の姿を見るなんて
機会はそうそうありませんでしたし
母親の鏡台の前に立つくらいしか
自分の姿を外から眺める方法は
なかったように思います。

まして自分の横顔や後ろ姿なんて
幽体離脱でもしないかぎり
見られるものではないと思ってました。

写真にしたって
現在のようにパシャパシャ
撮ったさきから眺めることはできなくて
時間とおカネをかけて現像するものですから
たいていは正面を向いてますね。

鏡のように左右反対にならないので
見慣れた自分とは違う姿がそこにあって
へんな気持ちになったりしたものです。

写真に撮られるのがきらいなわたしは
もちろん動画ももってのほかで
自分とおぼしき人物の姿を
自分のこの目で見定めることが
なによりも苦手で嫌いなのです。


そんなわたしが唯一
なんの違和感も不快感もなく
自分の姿を客観的目線で眺められるのは
ただ夢のなかだけなのです。

どんなひとでもそうでしょうが
夢見目線にはいくつかの種類があって
現実と同じように体と意識が一体で
自分が登場していても体を確認できない場合と
映画や撮影した動画を見ているように
登場している自分を外から見ている場合と
そのどちらでもなく、どうやら
自分がそこにいないらしい場合があります。

しかも面白いことに
自分が自分だという意識が曖昧で
さっきまでお喋りしていた相手が
いつのまにか自分になっているときもあります。

次々にキャラクターを
乗り換えていくんです。

夢のはじめはウサギにばかにされるカメだったのに
夢の終わりには山の中腹でガックリうなだれる
ウサギに変わっていたりするのです。



今朝の夢でわたしは
どこか学校の食堂のようなところで
男がふたりトラブっているのを
離れたところで傍観していたのですが

気弱そうな男が横暴な男に
インネンつけられているのを
いやーな気持ちで見ていました。

そこにコワモテの大男がやって来て
監守のような出で立ちだったのですが
彼が横暴な男を陰に引っ張っていったとき
わたしはなんとその横暴な男になっていました。

看守の男は罰としてわたしの
おしりをおおきな鉄パイプで
思い切り殴るのです。

ところがわたしが感じたのは
殴られる痛みではなく
うんと覚悟したにも関わらず
殴った快感のほうを感じていたのです。

すぐさまわたしは殴られた男に戻り
そのやり方は気にくわないと
看守の男に食って掛かります。

けれど看守の男は本当に恐くて
殺されるような予感を得てわたしは
一目散に逃げ出します。

するとわたしはもう
殴られた横暴な男ではなくなり
彼らを遠巻きに見ている
観客になっているのです。

夢のなかには
なんの混乱もありません。
そもそも乱れうる秩序がありません。

わたしはわたしであるにも関わらず
誰でもあって誰でもないのが
なんの疑問もなく同時に成立しています。

今朝の夢のなかで
わたしはいったい誰だったのか。

考え出すとあっという間に夜になり
また別の夢をみるのでしょうね。



目が覚めているときには
あえて自分を自分のなかに閉じ込めているのです。

現実とは思いたくないような
夢であってほしいと願うような
究極に苦しい状態にあると
わたしたちは目が覚めていても
まるで夢でもみているかのように
誰でもなくなり誰にでもなります。

動画が当たり前の時代になって
わたしたちは誰もが
私でないもうひとりの私に
簡単に遭遇することができます。

けれども現実の世界は
強いていうなら人間の世界は
夢のなかとは違い
乱れうる秩序があります。

自分の後ろ姿を見ながら
ふとそれを見ている自分が誰か
わからなくなってしまわないよう

気をしっかり持たなければならないと
夢から醒めるたびに
なんとなく思っています。









【テーマ・さんすう】


部屋の壁をぼんやり眺めていると
壁の中からさまざまな幾何学模様が
するすると浮き上がってきます。

こんなこと真顔で言うと、ときどき
相手にドン引きされてしまうでしょうが
いまではそういう不思議なことは
どんなひとにも経験があることだと
ひそかに確信しています。

子どものころには
まさに不思議な模様や記号のようなものが
実際に壁や空中をさまようのを
ぼんやり眺めていたような記憶がありますが

おとなになってしまったいまは
それらが実体のない
こころの作り出す虚像であることを
どこかで知りながら
自分勝手な妄想に耽る自覚がありますので
このことで他人や自分におかしな
危害や悪影響を及ぼさないよう
挙動や発言に気を遣う余裕があります。

錯覚だとか幻覚だとか
幽霊だとかもののけだとか
いくらでも騒いで怯えることはできるけど
合理的な説明で折角のまぼろしが
狂気の沙汰や無かったものとして
ぞんざいに扱われてしまうのは

もったいないことです。

わたしたちはもっと
みのまわりの不可思議現象に
素直に関心を払っていい。

無いものの証明に躍起になったり
他人を騙して思い込ませたり
そんなことはする必要はないけれど

実際あるかどうかは別として
あるように見えるものを
あるように見ることを
もっと大切にしていいと思います。



しかしながら
空中に図形や数式まがいのものが
ふわふわと映るときというのは
決してこころがよい状態にあるわけではないことを
わたしは経験的に知っています。

そういうとき
まっさきに疑うらくは
気持ちを不安定にさせている
ストレスの存在なのですが

まぼろしに焦って
まぼろしの存在を無視したら
よけい酷いことになることも
経験的に知りました。

ときには自分のなかの
よくわからない部分に付き合って
まぼろしを凝視することもまた
とても有意義なことです。

数学嫌いのわたしが
もやもやと数式に囲まれているときは
大抵ろくでもないことを考えているときで
主観的に不利な状況から
一発形勢逆転をねらっている
よこしまな気持ちでいるときなんですね。

1+1=2 !

有無を言わさずこれったらこれなの!
みたいな強引さを数式は持ってます。

1+1≠2 !

違うったら違うの!
いいからそうなの!

それなのに数式には
そこに書かれてない理由を
考えさせる強引さも兼ね備えていて

なぜそうなるのかを考えさせないことで
なぜそうなるのかを考えざるを得なくさせる
という不思議な心境を作り上げてくれます。

イコールであることを納得するには
イコールでないことを納得しなければならず

イコールでないことを納得するには
イコールであることを納得しなければならず

それは結局
どちらをかんがえても同じ
イコールであることに気づきます。

≠==


わたしはわたしでないものによって
わたしであることができる

なるほどなぁって
思いました。


ぽん、と膝を打つ音が
どこからともなく聞こえると

まるで催眠術が解けるように
幾何学模様も数式も
うそのように消えてしまうんですよ。

もったいないことです。